移動と生活とごみと猫 藤谷悠 / 文教大学講師・慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程・社会学 週刊読書人2023年4月7日号 「ひきこもり」と「ごみ屋敷」 国境と世代をこえて 著 者:古橋忠晃 出版社:名古屋大学出版会 ISBN13:978-4-8158-1113-6 私事であるが、最近引越しをした。新居は旧居より部屋の面積が狭いこともあり、長年捨てることができずにいたあれこれを大量にごみにして処分した。サイズが合わなくなった服、学部時代の講義で配られたプリントの束、ハロウィンで一度だけ使ったスパイダーマンのコスチューム。いずれも、もうずっと前から使うことなどなく、押入の奥や収納棚の隅の方で静かに眠っていた。それぞれに思い出があったり、あるいはまだ使える、また使う時が来るのではないかと思っていたものたちである。それら全てをごみに変えた。大袋で七袋分ほどになっただろうか。捨ててしまった以上それらは取り戻せないが、今さらまたスパイダーマンになりたいとも思わない。プリントの内容ももう頭に入っている。 そういうわけでやや大掛かりになった引越し作業を終え、無事転居した数日後の朝にこの書評の依頼が届いた。これまで陰の方でひっそりと活動していた私を見つけてもらえただけでありがたかったし、発信の機会を得られるだけで喜んでしまう。「俺の話を聞け」という自身の想いを事あるごとに自覚している。長らくひきこもって誰からも見向きをもされずに抑圧されていた間に、そうした欲望が育まれたのだろうと思う。 私は一五〜二四歳の十年間をひきこもりとして過ごした後に、現在は大学院の博士課程に所属し、ひきこもり当事者・経験者への生活史調査を行なっている。目下、博論の執筆に追われているが、その研究のための副次的な調査として、フランスのロワール地方にあるラボルド病院という精神医療施設へのフィールドワークも継続的に行なってきた。 本書の著者は、日仏の両国でひきこもりやその家族への臨床を行なっている精神科医であり、また研究者でもある。なるほど、私が書評をするには打ってつけのお相手である。本書では、まず日本を発祥とするひきこもりという現象・存在の歴史と現状を総論としてまとめつつ、それが今や国外でも確認されているという最新の状況について、特に著者のフランスでの臨床・調査経験を基に、主に精神医学的な観点から概説されている。それらを踏まえた上で、個人/社会、病/ライフスタイルといった境界をめぐる問いかけを行いながら、日仏それぞれのひきこもりに対する支援のあり方への思索が進められていく。そして終盤では、「ごみ屋敷」を形成する人々の様相とそれを取り巻く社会状況について、やはり精神医学的な分析がなされた上で、彼らとひきこもりとの連関的な考察が展開される。要するに、本書は「溜め込んで動けなくなっている人々」について考える本なのである。最後には総括として「個人の病理か、社会の病理か」という問いが投げられている。 当事者目線から見ると、正直に言えば、要所の考察において少々強引な一般化が行われているような違和感を覚える部分もある。ただ、日本のみならずフランスを現場に加えている点、また「ごみ屋敷」という異なる事象を交えている点で、本書はひきこもり研究に新たな視座を与えていると言えるだろう。ところで、転居と共に猫を飼い始めた。生後六ヶ月のオス猫である。野良猫だった彼を保護した方によって「ラペ」(Râpées)と名づけられていた。フランス語で「すりおろし」を意味する。元気盛りのラペとの生活は混沌を極めている。走り回る彼の排泄物と抜け毛を処理する毎日。異なる自然を持つ他者によって、私の私的空間は秩序と停滞に浸らずに済んでいる。何を捨てて何を抱え込むのか、ということだろう。抽象的にはなるが、私の身体知による直観から本書の内容について語ることがあるとすれば、この点を挙げることができるかもしれない。私は思い出が憑依したものたちをごみに変え、そして猫を迎え入れた。 もちろん、意図的に多くの自分語りをしている。本書は「語り口」も固く、専門書としての色合いが強い。ひきこもりというテーマを総合的に理解するためには、そうした専門的な固い言葉と対になるものとして、当事者や経験者の柔らかな言葉もまた(今以上に)価値づけられる必要があると考えている。現在の私は、その二つの言葉の間を往還しながら、執筆の邪魔をする換毛期のラペを撫でている。(ふじたに・ひろき=文教大学講師・慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程・社会学)★ふるはし・ただあき=精神科医・名古屋大学総合保健体育科学センター准教授。共著に『精神科シンプトマトロジー』『医師・医学生のための人類学・社会学』など。一九七三年生。