荻野哉 / 大分県立芸術文化短期大学教授・美学・芸術学 週刊読書人2023年4月14日号 日本人美術家のパリ 1878-1942 著 者:和田博文 出版社:平凡社 ISBN13:978-4-582-20729-3 黒田清輝や久米桂一郎が外光派の画家ラファエル・コランのアトリエで指導を受けた一八八〇年代から、一九四〇年のドイツ軍による占領までの間に、多くの日本人美術家が「憧憬の異都」であるパリを訪れた。時にはモネやルノワール、マティスやピカソに教えを請いつつ、彼らは目まぐるしく変化するパリの美術界で希望を抱き、夢を追った。その足跡を、美術雑誌をはじめとする膨大な資料からたどった本書が浮かび上がらせるテーマは、もちろん多岐にわたる。 評者は、絵画や彫刻の制作に取り組む学生と教育機関で接している。そんな評者にとって、「西洋人の真似をせずに伝統的な日本画を描け」と、しばしば日本人美術家に語ってきたフランス人に対し、「現代日本の美術家が西洋美術を学ぶ必然性」を理解させたという、一九三八年の第一回巴里日本美術家展覧会の意義を報じる記事(三五六-三五七頁)は、印象深いもののひとつだった。 横山大観らが余白の効果によってその存在意義を認めさせようとした日本画とは異なり、日本人が描く洋画の場合は、一九世紀後半にヨーロッパで流行したジャポニスムというレンズを通すと、アイデンティティを放棄して西洋美術の模倣にとどまっていると批判されがちだったのである。こうしたレンズを逆手に取って、フランスのステレオタイプ化した日本美術観を乗り越えつつ、オリジナリティを創造するという二重の高い壁に立ち向かった代表的な存在が藤田嗣治であった。これは、本書でその名が最も多く登場することからも明らかだろう。洋画/日本画という二項対立にとらわれずに画材や技法を探究した結果、「白を白色として生かして」描く境地へと到達した彼は、文字通り真の単独者性を獲得している。 もっとも、印象派・新印象派の影響、さらにはフォーヴィスムやキュビスム、表現主義といった潮流からの刺激を受けた後で、オリジナルな世界をいかにして切り拓くのか。この難題に直面し、模索を続けたのは藤田だけではない。「近頃の自分の仕事は、何所までが自分で、何所までがルノアールか? 感化か? 模倣か?」と夜道でつぶやく梅原龍三郎の姿(一〇二頁)は、「豊かな個性」や「自由な表現」といった語句を用いがちな芸術関係者が、立場を問わず心にとどめるべきものである。 ルーヴルをはじめとするヨーロッパ各地の美術館の充実したコレクションに感銘を受けて、日本の近代に至る芸術が系統的に把握できる常設美術館の必要性を説いた人々の思想も、同様の観点から見逃してはならない。複製の写真ではなく現物を目の当たりにし、それらの徹底した模写を通じて筆触や色調を学び、巨匠たちの容易に真似し難い個性を研究する場が美術館であることを、彼らは十分認識していた。くわえて、美術館やサロンでの鑑賞に限界を感じ、同時代の作品との出会いを求めて画商やコレクターと交流を深める芸術家たちの積極性は、オンライン社会の便利さに慣れた現代人が忘れがちな心構えといえよう。 表記で気になった箇所を最後に挙げておく。創作活動が制限された第一次世界大戦時に、閉館中にもかかわらず青山熊治らに自由な模写を許可したリヨン美術館館長「アンリー・フォシューヨン」(一五三-一五四頁)は、『かたちの生命』などの著者として知られるアンリ・フォシヨンのことであろう。また、第二次世界大戦の開戦直後にルーヴル美術館が避難させた美術品の記述で、《メデューズ号の筏》の作者がウジェーヌ・ドラクロワとある(三六九-三七〇頁)のは、テオドール・ジェリコーの誤りである。日本人美術家のパリ体験の総体にアプローチするという性質上、たとえば日仏美術交流史におけるコランの再評価や、フランスのアカデミスムの影響下で黒田らが独自の近代洋画を開花させていく過程の検証には、物足りない感も残る(より詳細な考察に関しては、三浦篤氏の『移り棲む美術』などをあわせて参照すべきだろう)。 とはいえ、こうした点によって本書の意義が減じるわけではけっしてない。それは、戦乱の渦に飲み込まれていくパリで美術を志した人々の葛藤を生き生きと描き出すことによって、「異文化理解とはそもそも何なのか」というテーマ――今を生きる人間にとっても解決されていない根源的な問題――を、読者に繰り返し突きつけるからである。(おぎの・はじめ=大分県立芸術文化短期大学教授・美学・芸術学)★わだ・ひろふみ=東京女子大学比較文化研究所長・丸山眞男記念比較思想研究センター長・文化史・比較文化・日本近現代文学。著書に『三越誕生! 帝国のデパートと近代化の夢』『海の上の世界地図 欧州航路紀行史』『シベリア鉄道紀行史アジアとヨーロッパを結ぶ旅』『資生堂という文化装置』など。一九五四年生。