迫りくる侵略と支配、したたか飲み、食い、激論する 私市保彦 / 武蔵大学名誉教授・フランス文学・比較文学 週刊読書人2023年4月14日号 香港陥落 著 者:松浦寿輝 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-530023-7 実に特異な小説である。第二次世界大戦下の香港で、日本人の谷尾、中国人の黄(ホアン)、英国人のリーランドなどの国際的人物がいかに生き抜いたかを、戦前戦後の四期に切り分けて語るという筋書きである。特異というのは括弧付きの会話体がほとんどなく、語りと心理が一体となって叙述されながら、食欲をそそって止まない中華料理の数々も供され、まるで食通の文学という趣きであることだ。また、シェークスピア劇のセリフが全体を貫く靭帯となって要所要所を繫ぎ合わせていることだ。読みながら、これは新形式の「歴史小説」、いや大袈裟にいうと新形式の小説であろうかとも思われてくる。 はじめに「前書き」として、日本軍が広東、海南島の攻略から香港を攻めとり、総督府をペニンシュラホテルに置いたという経緯が略述される。日本軍に占拠される直前のそのホテルの広東料理のレストランで、谷尾が知己の英国人リーランドと中国人の黄をまじえて会食する場面で物語がはじまる。リーランドはシェークスピアの引用がお得意であるが、ここでも「言葉、言葉、言葉」と「ハムレット」の台詞をつぶやく。こういいながらも、会話は括弧付きで叙述されない。これによってどういう効果が生まれるか? いうまでもなく発話と心理が境界なく一体となって述べられ、一種の内的なモノローグのようになってゆき、読者はそのなかに巻き込まれてゆく。 相手が外国人同士というのも特異である。物語のさいごまでこの国際的組み合わせで展開する。とりわけ、さいごはリーランドの語りとシェークスピアの台詞で締めくくられるので、国境なきインターナショナル小説ともいえよう。これら中・日・英の人物たちは、仕事においても生き方においても自由人か風来坊のような存在である。谷尾は外務省勤務をやめて邦人向けの小新聞を発行している。リーランドはイギリスのウエールズから香港にやってきて、元はイギリス政府貿易部にいたが今はロイター通信の非正規職員だと称している男で、黄は貿易商らしきものを営んでいる。三人のいずれも、迫りくる日本軍の侵略と支配の力をひしひしと感じ取っている。とりわけ黄は「戦争はおとぎ話じゃないですよ。それは殺戮、強姦、拷問、追放です」と、戦争は「空想上のお話じゃなくて現実です」と語る。被害者としての黄の実感であろうが、ウクライナの戦乱を日々伝えられているわれわれの胸に響くことばである。しかし、戦争の悲劇を忘れんとするかのように、彼らは酒を食らい、料理に舌鼓を打つ。悲しみに襲われている人々が時に貪欲に食べることがあるように、彼らはひたすら飲み、ひたすら食らい、ひたすら語る。 筋書や場面も直線上に進行せず、いわば円環を描いて進んでゆく。各章は「一九四一年十一月八日土曜日」といった具合に日付がタイトルになり、しかもその日付は一九四一年の日本敗戦の年を軸に行きつ戻りつして、人物たちはたえず過去を回想する、いわば循環的時間である。また、前半ではペニンシュラホテルが、最後の章ではぬかるんだ小路に面した「百龍餐館」という中華料理店が繰り返される舞台となっている。彼らはそこでしたたか飲み、したたか食い、ときに激論する。しかも、そこで出される料理の数々はそれこそ垂涎ものである。「百龍餐館」の会食者は、リーランドのほか、馮(フオン)という「幽鬼のような」老人、リーランドに偽のロレックスを売りつけた沈(シエン)という男などであり、時には新顔も現れる。そしてさいごの会食者は、黄が病死したのを知って久しぶりに英国から訪中したリーランド、彼に偽物のロレックスをつかませた沈、かつて黄と同棲していた女流画家のグウィネスとなり、どういうわけか日本人の谷尾は噂の種になるだけだ。 そして、またもシェークスピアの『テンペスト』から「われらが宴はもう果てました……」とはじまる台詞が引用され、さらに、「故郷へ帰り、報酬を受け取る輝かしい若者たち」という『シンペリオン』の台詞が唱えられ、リーランドが英国での釣り三昧とパブに沈を誘うところで物語が閉じられる。ちなみに、これらはすべて仏文学者でもある作者自身の訳とのことであるから、作者のシェークスピアへの打ち込みようがわかろうというものであろう。 このように物語の舞台は一貫して日本に制圧される前後の香港である。香港といえば今や中国に弾圧され、租界地らしい生活と文化が消えようとしている悲劇が思い出されてならないが、さいごの逸話では日本人谷尾の姿が消える一方、もうひとりの主人公リーランドも香港を見捨てて英国に戻る結末には、あるいは現在の香港に対する作者の思いがあるのやもしれない。 以上で、この物語がいかに特異な世界を特異な形式で描いているかお分かりであろう。作者の並々ならぬ構想力には感嘆するほかない。この独特な手法に馴染まない読者もいるやもしれぬが、評者は現在の香港の悲劇を脳裏に浮かべながらも、この小説に惹かれていったのである。(きさいち・やすひこ=武蔵大学名誉教授・フランス文学・比較文学)★まつうら・ひさき=詩人・小説家・東京大学名誉教授・フランス文学・表象文化論。「花腐し」で芥川賞受賞。著書に『半島』(読売文学賞)『吃水都市』(萩原朔太郎賞)『afterward』(鮎川信夫賞)『名誉と恍惚』(谷崎潤一郎賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞、日本芸術院賞)『人外』(野間文芸賞)など。一九五四年生。