伝統的な革命論に対する異端児アーレントの本義 小石川和永 / 筑波大学非常勤講師・哲学 週刊読書人2023年4月14日号 アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む 著 者:森一郎 出版社:みすず書房 ISBN13:978-4-622-09554-5 一足先に刊行されたアーレントの『革命論』を訳した哲学者、森一郎による同書のすぐれた解題書である。本書の終わり近くで、著者がアーレントのペシミズムに言及しているのが、非常に印象深い。生きてあるよりも、死んだ方が幸いだということである。そこからすると、政治に情熱を傾ける人間とは「死に損ない」なのだそうだ。アーレントの政治思想の本質を言い当てていると感じた。 おしなべてアーレントの著作は難解であり、その理由はいくつもあると考えられる。敢えて一つ理由を挙げるならば、それはアーレントが「人間の自由」について語ろうとするからだと思う。二一世紀の民主主義国家を名乗る国に生きている人間が、何を馬鹿なことをと笑われるかもしれない。だが果たしてそうだろうか。私たちは自由を指さすことも、それに触れることも出来ない。或いは自由など何処にも存在せず、単なる理念という幻想でしかないのだろうか。しかし、自由を想定しなければ、法は成立しない。人は自由意志で自分の行為を決定できると考えるからこそ、法を犯せば責任を問われるのだ。もっと言えば、私たちが自由でないのであれば、生きている甲斐などないということになる。すべてが必然によって決定されるのであれば、私やあなたが私やあなたという唯一無二の存在である根拠を見出せないからだ。突き詰めれば、自由の否定は人間存在を無意味化する。そのことをとことん考えたのが、政治哲学者、ハンナ・アーレントであることを、『革命論』との対話を重ねてきた森は良く知っている。森が『革命論』のはしがきで、それを「アーレント第二の哲学的主著」と書いていたのがその傍証である。 では、アーレントのペシミズムを『革命論』にどう跡付けるのか。森の答えは、アメリカ共和国の創設は憲法制定の行為の内に現れた、と解するアーレントの議論においてなされる。これはかなり大胆な読みである。だが、そもそもアーレントの『革命論』は、伝統的な政治学が理解する革命とその色合いを大きく異にする。フランス革命を否定し、現代民主主義国家の大前提である国民主権という考えをもばっさりと斬るアーレントは、革命論の伝統からすれば異端児なのだ。この視座から読む限り、『革命論』は誤った歴史認識、良くても歴史的事実の断片の雑多な寄せ集めと言われるのがおちである。そうした中で、森が提示する読み筋は、アーレントの議論を理解可能なものとして掬い出す。 伝統的な政治学の考えと異なり、アーレントがアメリカの憲法を「権力を構成する」ものと提示する部分に森は着目し、その意味を「約束」という行為として読み解く。そこに『活動的生』で展開された権力概念の特質が受け継がれていることを、森は見逃さなかった。ひとたび「約束する行為」として憲法を眺めると、新しい政治体を創設するという現象は、伝統的な民主主義国家理解とは異なる意味を明らかにする。 憲法というのは、その国がどのような国であるかを規定する土台である。だから「憲法制定」には、何か揺るぎない基礎を建造するという静的なイメージがつきまとう。これに対して、約束としての憲法(制定)は動的なのだ。これは憲法制定の目的についての洞察に本質的な変化を与える考え方である。 「約束」の真髄は、約束を交わす人々の自発性にのみ依拠する。お互いに何かを約束したいから約束をするのである。言い換えれば、強制されたものを約束とは言わない。約束を交わした者たちは、互いに対等な関係だと見做される。約束だけが彼らに等しく共通する事柄だからである。同じ理由から約束は必然から自由である、と言える。約束しなければならないのであれば、そこには自発性の外側から働く力が作用しているのであり、これを約束とは呼べないからである。更に言えば、約束は約束が守られている間だけ有効である。約束は、「一度しておしまい」、にはならない。守られつづけるからこその、約束だからである。 つまり憲法を「約束」と捉え、新しい政治体の創設の契機を約束の内に見るということは、次のことを意味する。憲法は、憲法に同意する人々の間に水平な関係性を構築すること。そして、憲法によって生み出されるものは必然の対極にある、ということ。何故なら、憲法に同意する人々がそれを存在させたいと願うという理由だけから、存在するようになるからである。最後に、そのような憲法は、その精神が維持される間のみ有効であると考えられること。すなわち、厳密に言えば憲法とは、「状態」を意味すること。この三点を指して森は、アーレントの積極的権力概念と呼び、このような権力概念で構成される国を従来の民主主義国家と区別された、共和国と理解するのだ。 そうして創設された共和国とは、「約束」にその起源をもつ故に、必然の連続性が支配する自然界における「時間の裂け目」なのであり、自由の現われを可能とする空間と理解できる。比喩的に言えば、この空間に生まれくること、そしてそこで生きることで、人は単なる一生命体を超えた存在になる。相互に約束することで対等な関係を持ちえた者だけが、自由を経験し、自由の内に生きることが出来るからである。相互に約束を交わす他者と共に在る時、ひとは逆説的に他ではありえない唯一無二の誰かとして現れることが出来るからだ。そして、血の繫がりによってではなく、この約束の内に生まれてくることにおいて、人は創設の経験と結びつく。 自由が現われリアルなものであると体験される空間を、死すべき存在が相互の約束の内に開いたということは、必然の連鎖を切り開く新しい時代が始まったことを意味する。どうせ死ぬのに……というペシミズムを救うのは、必然に抗う自由の現われなのである。たとえそれが宇宙や地球の歴史からすれば、瞬きほどの時間であっても。これがアーレントの革命論の本義であることを森は示す。では先の戦争で大敗した経験を基礎に不戦と平和主義を約束した日本国憲法はどのような時代を開こうとしたのか。森はアーレントの議論の先に、そうした問いを投げかけている。(こいしかわ・かずえ=筑波大学非常勤講師・哲学)★もり・いちろう=東北大学教授・哲学。著書に『ポリスへの愛』『核時代のテクノロジー』『ハイデガーと哲学の可能性』『現代の危機と哲学』『死を超えるもの』『死と誕生』など。一九六二年生。