ベンサムのテクストにおける新たな側面に迫る 仲正昌樹 / 金沢大学教授・法思想史 週刊読書人2023年4月14日号 ベンサム「公開性」の法哲学 著 者:ジェラルド・ポステマ 出版社:慶應義塾大学出版会 ISBN13:978-4-7664-2873-5 克服すべき悪しき近代合理性の権化と名指されることの多い「功利主義」であるが、法哲学・政治思想史の専門的な研究者の間ではむしろ、その再評価がトレンドになっている。再評価の二つの方向として、「最大多数の最大幸福」というキャッチフレーズだけ知られている功利主義の概念装置を、経済学や行動心理学の知見を踏まえて精緻化していく路線と、個々の思想家、特に創始者ベンサムの――民法、刑法、証拠法など多岐にわたる――テクスト群を丹念に読み、その知られざる側面を明らかにしていく路線だ。 本書は、前者の側面も含んでいるが、基本的には後者に属する。ポステマは三年前に邦訳が出た『功利とデモクラシー』の著者スコフィールドと並んで、ベンサム研究の二大巨頭だ。『功利とデモクラシー』が、ベンサムの思想形成過程に即して、彼が英国の法と政治を歪める「邪悪な利益」をどう捉え、どう抑止しようとしてきたかに焦点を当てているので分かりやすい。それに対して本書は、ベンサムの法哲学を、従来のベンサム研究では重視されていなかった「公開性」という概念を軸に再構成する、というかなりの困難を伴うが、その分刺激的な課題に取り組んでいる。 「ベンサムと公開性」と聞くと、多少ベンサムを学んだ者なら、すぐに「世論法廷」を思い浮かべるはずだ。文字通り、世論によって議会や行政府を縛る構想だが、欠陥だらけのコモン・ローに代わって、功利性の原理に基づく一貫した法体系(パンノミオン)を導入して社会を改造するとか、パノプティコンで犯罪者などを効率的に矯正する、といった具体的な構想と比べると、いかにもしょぼく、とってつけた話に思える。そうした一般的な印象に抗して、ポステマは、ベンサムの言語哲学・心理学の中核に位置する、快楽・苦痛の経験をいかに他者と共有し、言語化するかという問いを起点に、「公開性」とは何か掘り下げていく。 「功利性」の原理によって社会問題へのベストな解答を導き出すには、各人がそれによって感じる快楽と苦痛を、その強度や影響の範囲と掛け合わせ、集計すればいい。そう理解されがちだが、ポステマによると、ベンサムは快楽を客観的に測定することの困難を認識していたし、各人を快楽や苦痛が生じる単なる容器のようなものと見なすことの不当さを指摘している。快楽それ自体の代わりにベンサムが注目したのが、初期においては、功利性への「期待」であり、後期においては、「利益=関心 inter―est」であった。 「利益」であれば、ある程度客観的に比較することが可能だ。他者とのコミュニケーションを通してお互いにどのような「関心」を持っているか知り、情報共有して修正することも可能だ。「普遍的利益」に基づいて、諸法典は編纂されるべきである、とベンサムは主張する。「普遍的利益」に向けてのコミュニケーションにとって、「公開性」は不可欠だ。 ベンサムは、議会での立法だけでなく、裁判も、公衆の目に晒され、「普遍的利益」の実現に寄与しているかどうか吟味されるようになることを目指した。ベンサムは、法哲学的には、法の本質を主権者の命令とする法命令説の系譜に属すると見なされてきたが、ポステマによると、ベンサムは一方的に命令するのではなく、人々が受け入れるべき理由を示す責任が主権者にある、と想定した。それができない主権者に圧力をかけ、「邪悪な利益」から遠ざけるのが「世論法廷」だ。 〝人権〟を憲法に書き込むことに反対したベンサムの真意をめぐる第十章では、イデオロギー的なレトリックではなく、普遍的利益をめぐる公共的な熟議が問題であったことを指摘している。ポステマは、全ての人が受け入れる論証可能性を条件とするベンサム自身の議論は、要求が高すぎるとして距離を置きながら、価値や生き方が多元化した現代社会では、互いの「利益」を確認し合い、法や権利と一致させようとする言説的実践が重要だと強調する。本書が、トランプ大統領在任中に刊行されたことを思うと、意味深だ。(戒能通弘訳)(なかまさ・まさき=金沢大学教授・法思想史) ★ジェラルド・J・ポステマ=ノースカロライナ大学チェペルヒル校名誉教授・法哲学・法思想。一九四八年生。