時代と全力で屹立しようとする強い姿勢 円満字二郎 / 編集者・ライター 週刊読書人2023年4月21日号 失格でもいいじゃないの 太宰治の罪と愛 著 者:千葉一幹 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-528211-3 一九八〇年代の後半のこと、ぼくが所属していた学生オーケストラには太宰好きが何人もいた。ぼくも高校生のころから太宰を愛読していたから、それがふつうのことだと思っていた。ところが、社会に出て働き始めると、世の中には太宰嫌いもたくさんいて、彼らの方が圧倒的に声が大きいと思い知らされることになった。飲み会の席で、「太宰なんかが好きな奴はダメな奴だ」と妙な当てこすりを言われたことも、一度や二度ではない。それは結局、太宰文学とはダメな奴が書いたダメな文学だから、それを愛読する者もダメ人間だ、という論理なのだろう。 太宰ほど好き嫌いが分かれる作家は、珍しい。太宰嫌いは声高に「ダメな奴」だと叫ぶけれど、太宰好きはそう言われれば言われるほど太宰に魅力を感じる。本書の帯に書いてある通り「ダメ人間だけが持てるやさしさがある」わけだが、はて、改めてその「やさしさ」の内実を自身に問うてみると、以外と茫漠とした答えしか持ち合わせていないことに気づく。そこが、太宰好きが太宰嫌いから突っ込まれるところで、「やさしさ」などというやわなことばで満足しているうちは、文学をきちんと語ったことにはならないのだ。本書は、その点から太宰文学の魅力を掘り下げて行く力作である。 第一章では、戦中期の太宰を特徴付ける、女性を語り手とする作品群を取り上げる。「男なのに女のふりをして小説を書くなんて、女々しい奴だ、ダメ人間だ」と嫌われる要因だ。しかし、著者は、「女生徒」や「皮膚と心」などの作品を細かく読み解きながら、戦前の日本社会において「自らの夢を語る言葉を持たない、持てないと思い込まされている」女性になり代わり、太宰が女性の夢を語るのが、この「言語的異性装趣味」の小説の本質だと喝破する。 続く第二章は、戦後、死の直前に発表された「桜桃」の一節、「人非人でもいいじゃないの」をめぐって展開する。これまた、いかにも「ダメ人間だ」と決めつけられそうな発言だが、著者は、第二次世界大戦で若い命を散らした者たちへの負い目、「サバイバーズ・ギルト」をキーワードとして、このことばを解釈していく。「人間」としての生を断たれた者たちのことを思えば、生き残った者は「人非人」として生きるしかない。その思いを強くした結果、太宰は、自らに「人間失格」の烙印を押して死出の旅路に出たのだ、と。 ぼくにとっては、この二つの章で展開される議論に、蒙を啓かれるものが多かった。特に、読者としての女性が持つ意義や、天皇への思いの変遷などは、太宰の愛読者ならば目を通しておくことをお勧めする。 最後の第三章は、太宰と三島由紀夫の比較論。二人とも、第二次世界大戦で死んでいった者たちを強く意識していたという点で等しく、共に自死を選んだという点でも同じだ、と著者は指摘する。そうやって三島と合わせ鏡の位置に太宰を立たせたとき、浮かび上がってくるのは、文学を民族や国家というものに結び付けて雄々しさを追い求めた三島に対して、「弱々しくしか生きられない」個人に寄り添おうとする太宰の姿である。三島の骨太な文学が戦後日本社会との格闘の中から生まれてきたように、太宰の「やさしさ」もまた、彼の生きた時代の国家や社会の中で泥まみれになりながら生み出されたものなのだ。 太宰の「やさしさ」の底には、彼なりに時代と全力で屹立しようとする強い姿勢がある。だからこそ、太宰文学は時代を超えて読み継がれているのだろう。 とはいえ、昨今では、太宰好きはかつてのぼくのような肩身の狭い思いはしないで済むようになっているらしい。多様性が重視される風潮の中で、「ダメ人間」も「人間」として生きやすくなったのだろうか。それはもちろん、すばらしいことには違いない。 しかし、「ダメ人間」が「人間」として生きられるとは、「ダメ人間」が「ダメ人間」ではなくなるということだ。そうなったとき、太宰は誰に寄り添おうとするのだろうか。太宰文学の真価が問われるのは、これからのような気がする。(えんまんじ・じろう=編集者・ライター)★ちば・かずみき=大東文化大学教授・近現代文学・文芸評論家。著書に『クリニック・クリティック 私批評宣言』『宮沢賢治すべてのさいはひをかけてねがふ』『コンテクストの読み方 コロナ時代の人文学』など。一九六一年生。