台湾語をいかに描写できるのかという問い 吉田真悟 / 一橋大学大学院言語社会研究科専任講師・社会言語学 週刊読書人2023年4月21日号 台湾および落語の! 著 者:真木由紹 出版社:彩流社 ISBN13:978-4-7791-2866-0 本書は「落語」、「台湾(語)」、「スケボー」という、どれを取ってもそれについてある程度知っている人間が限られそうな、そんな三つの題材が絡み合った小説である。これら全てに明るい人が、日本に何人いるだろうか。その意味で、この著者にしか書けない作品には違いなく、逆に読者はかなりの確率で、どれか(乃至は全て)の背景知識なしに読み進めることになる。それに加え、地の文が既に落語チックな語り口であることや、登場人物が何れも個性的で、奇天烈な言動が多いのも手伝って、読み易い小説であるとは言い難い。 ただ私自身はこれら三つの題材の内、日本では恐らく最も知名度が低い台湾語を専門としているため、そこに関してだけ些かの知識を動員しつつ読むことができた。やや特殊な読み方ではあるが、そんな視点から見えたこの本の景色について書いてみたい。 主人公の佐々木は、落語とスケボーを愛好する日本人青年で、台湾南部の街嘉義での滞在から、交際相手の台湾人ザイの日本留学に伴い帰国しているが、ゆくゆくは彼女と台湾へ戻る計画である。彼は日本語講師をしている中で、落語家志望の台湾人学生許壽一と知り合い、父子共々懇意の落語家夢春師匠に紹介した。その壽一の失踪が、この物語の起点である。 佐々木はSNSを頼りに壽一を見つけ出すが、壽一が姿を消した理由は台湾の統一地方選挙にあり(しかも目的は投票ではなく……)、一方の夢春師匠は、壽一との出会いをきっかけに台湾語落語の練習を始めていた。佐々木は彼ら師弟による二人会を台湾で催すために奔走することとなり、その過程でスケボー乗りの目線から見た日本と台湾の景色が、活き活きと描写される。 台湾語については、「日本語と中国語に押し出し締め出しを喰らい続けた結果、台湾語が国語になり得ることはなかった」と、複雑な歴史に関する簡にして要を得た解説が散りばめられ、同時に「耳触りが大変良」く、「言葉自体が栄養をたらふく含んでいるように感じる」といった、主人公( 著者)の主観による好意的描写が随所に見られる。 そんな台湾語で落語「初天神」を演じるシーンが本書の見せ場なのだが、そこを「看得懂」(目で見て理解できる)な読者は恐らく皆無だろう。と言うのも、中国語の台詞が漢字と日本語訳で表記されるのに対して、台湾語は基本的にカタカナによる発音の模写のみだからである。台湾語も近年は漢字とローマ字(本書表紙にも見える)による表記の規範化が進んでおり、それを専門とする立場から見るとこうした描かれ方は、台湾人の間ですら今だに根強い「台湾語は文字がない未開な言語」という偏見を助長してしまわないか、と一抹の不安がよぎる。しかしそれは、主人公が分かるのが中国語のみで、そのため台湾語になると「会話が一気に秘密めいて感じられる」ことのリアルな描写でもあり、その「分からなさ」が台湾語に対する憧れにも似た感情の源になっているだろうことを考えれば、本作品においては寧ろ必要な表現でもある。 本書では台湾語の他にも、外省人と本省人の確執や、国交を結ぶ国の減少等、台湾に纏わる政治・社会的問題が時折顔を覗かせる。そうした背景を意識しつつ読むと、壽一の落語家名「台夢」に込められた「台湾の夢」とはどんなものだろう、等という想像が搔き立てられたりもするが、あまり知らずに読む人にとっても、そういった事に関心を持つきっかけになるのではないだろうか。また「台湾」というテーマのみならず、「落語」と「スケボー」についても同じ事が言えるだろう(少なくとも私はこれらに興味が湧いた)。 この物語(特に終盤)では、私ならば焦ったりイラついたりしてしまいそうな展開が次々と起こるが、主人公はそれを「こんなこと含めて落語」と口癖のように言い、またスケボーにおける転倒が「幸福な予定調和」であることになぞらえたりして、鷹揚に受け止める。考えてみれば私が台湾に惹かれたのも、細かい事に一々囚われない人々のそうした大らかさが故だったではないか。「落語」、「台湾」、「スケボー」が同居する必然性は、そんな所にあるのかもしれない。(よしだ・しんご=一橋大学大学院言語社会研究科専任講師・社会言語学)★まき・よしつぐ=作家・日本語講師。第二八回太宰治文学賞最終候補。一九八二年生。