後期シューベルトの魅力に迫る 小田部胤久 / 東京大学教授・美学 週刊読書人2023年4月21日号 わが友、シューベルト 著 者:堀朋平 出版社:アルテスパブリッシング ISBN13:978-4-86559-263-4 ある作曲家の作品に、あるいはその人の生に迫るとはいかなることなのか。後期シューベルトを論じる本書は、芸術学上のこの永遠の問いに、卓越した仕方で応答する。著者は、浩瀚な中期シューベルト論『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデュッセイ』(二〇一六年)によって耳目を集めた気鋭の研究者である。 残された個々の楽曲の、あるいは残された日記等のミクロな分析から、作曲家が私たちに伝えるメッセージというマクロな次元を引き出すために、著者はいくつもの補助線を用意する。シューベルトの交友関係や、友人たちの精神分析などがそれであり、本書はさながら万華鏡のような観を呈する。 シューベルトの交友関係、あるいは友人たちの加わっていたクラブ、およびそこでの話題の分析は、シューベルトの思想的背景を照らし出す。シューベルト(特に一八二〇年代半ばの)において、神なき世界にわれわれは生きているというグノーシス的な立場は、ギリシア的・異教的愛の立場と、さらにはこの世界には神が満ちているという汎神論と結びついている。そのことが、ミサ曲作曲に際して作曲家の施したラテン語典礼文の削除についての解釈をとおして、あるいは古典主義者マイアホーファーによる歌曲、ロマン主義者フリードリヒ・シュレーゲルの詩集『夕映え』による歌曲などの分析をとおして、詳述される。 著者は精神分析的手法にも訴えるが、これは著者がシューベルトに固有の語法――中でも副次主題(第二主題)の拡張と著者が名づけるもの――の特質を明らかにするためである。しばしばシューベルトの楽曲(とりわけソナタ形式によるもの)は、旋律(特に第二主題のそれ)の歌唱性ゆえに推進力を欠いており、また副次主題の過度の繰り返しゆえに主要主題(第一主題)の貫徹を阻んでいる、と否定的に特徴づけられてきた。だが、著者は最近の研究動向を踏まえつつ、シューベルトをこのように拙い作曲家と捉える見方を斥ける。 本書の中心は、副次主題を扱った箇所(第Ⅴ章以下随所)にある。シューベルトの副次主題は、時として「主なき想念の増殖」を許し(その典型例は《絃楽四重奏曲》(D887)第一楽章)、聴く人を混乱させもする。著者はここでラカン流の精神分析を引き合いに出しつつ、後期シューベルトの音楽を、原初の至福が失われた段階にあって、この到達しえず、常に失われている対象の周りを繰り返し回転するものとして特徴づける。この循環運動それ自体が独自の快をもたらすという著者の主張は、精緻な楽曲分析を伴いつつ、後期シューベルトの音楽の特質を見事に写し取っている。著者は後期の歌曲のうちにも同様の傾向を見て取り、シュルツェの詩による《春に》(D882)を例にとって、天上へ上昇しようとするかつてのグノーシス的エネルギーではなく、すべてを受け入れ、痛みと救いが一つとなる円環的時間意識をそこに指摘する。和声進行、リズム動機、歌詞とピアノ声部のかかわり等についての繊細な分析がこの曲の繊細な魅力に寄り添っている。 本書の白眉をなすのは、《ピアノ三重奏曲》(D929)論である。共生(第四楽章主要主題)を夢見ながら孤独(同副次主題)を生きる作曲家が、亡くなったばかりのベートーヴェンの亡霊(第四楽章で回帰する第二楽章主要主題)と融合し、こうして人々が一つになる、というこの曲の軌道を、著者は初稿を参照しつつ説得的に語り出す。 結婚を祝う愛の歌(独唱と女性合唱のための)《セレナーデ》(D920)のうちに、静止と揺動のあわい、あるいは生と死との円環を聴き取るところで、本書は閉じられる。これ以上の終わり方は考えられない。だが、この終着点から振り返るとき、不思議と触れられていない曲があることに気づかされる。《冬の旅》(D911)がそれである(本文では二度言及されるのみ)。著者がこの傑作をいかに論じ、謳い上げるのか、心待ちにしたい。(おたべ・たねひさ=東京大学教授・美学)★ほり・ともへい=住友生命いずみホール音楽アドバイザー・国立音楽大学非常勤講師・音楽学。二〇一三年、東京大学にて博士号(文学)を取得。著書に『〈フランツ・シューベルト〉の誕生』など。一九七九年生。