多元的な視座を有するプロフェッショナリズムの結晶 宮川創 / 国立国語研究所助教・言語学・人文情報学・エジプト学 週刊読書人2023年5月5日号 ヒエログリフを解け ロゼッタストーンに挑んだ英仏ふたりの天才と究極の解読レース 著 者:エドワード・ドルニック 出版社:東京創元社 ISBN13:978-4-488-00397-5 いまから二〇〇年前の一八二二年九月一四日、フランスの若きジャン=フランソワ・シャンポリオンは、千年以上の間誰も読むことができなかったヒエログリフの読み方の核心部分を理解し、兄のもとにやってきてこう叫んだ。「Je tiens l'affaire!(わかったぞ!)」。そして、彼は気絶した。 彼はこの古代エジプトの文字の解明に全身全霊を尽くして一〇年以上その謎に挑み、苦しみ続けた。それがやっと解読の核心をつかんだのだ。その核心とは、ヒエログリフは、表音文字と表語文字と語の範疇を決める限定符(本書では「決定詞」)の組み合わせであるというものであった。彼は回復したのち、パリの銘文・文芸アカデミーにおいてこの発見を「ムッシュー・ダシエへの書簡」と題された論文とともに発表した。そこには、ヒエログリフの解読に挑んだ彼の先人たち、とりわけ、ヒエログリフ解読の端緒を拓いた英国の物理学者・医師であったトマス・ヤングの姿もあった。 本書は、古代エジプトの遺跡や墓に刻まれ、様々な動物や人や物の形をし、時には色鮮やかに彩色されるヒエログリフの解読の歴史を、ダイナミックに描く。過去に類書は多数書かれ、いくつかは日本語にも翻訳されてはいる。しかし、本書は、西洋近代以前のヒエログリフ研究の状況や、最近になってわかってきた、シャンポリオンとヒエログリフ解読に挑んだ先人達の人生の詳細が記されている。さらには、文字という道具の人類史的意義への考察や認知科学的な分析など、類書にはない多数の長所を有している。 これは、著者エドワード・ドルニックが歴史家ではなく、熟練のジャーナリストであることも大きい。ワシントンDC在住の著者は、この街を中心に英語圏の研究者へ多数の取材を行った。とくに謝辞では、「コプト語の権威」のアミール・ゼルデス氏(ジョージタウン大学言語学科准教授)そして、著名なエジプト学者であるボブ・ブライアー氏の取材への協力がかかせなかったと述べている。評者は、全米人文科学基金とドイツ研究振興協会のジョイントプロジェクトKELLIAの研究員として、ゼルデス氏の指導のもとでコプト語のコーパス開発に携わったことがある。イスラエル生まれのゼルデス氏は、母語のヘブライ語だけでなく、コプト語、ギリシア語、サンスクリット語、ドイツ語、アラビア語、日本語、中国語、ポーランド語、英語など、様々な言語を理解し、話すことができるポリグロットだ。計算言語学の准教授であり、さらには多数のプログラミング言語も駆使する彼は、長年、言語や文字の起源も深く考察しており、実証的な議論を展開してきた。本書のヒエログリフの仕組みに関する言語哲学的な視点は、ゼルデス氏が評者に過去に語ったものにそっくりだったことに驚いたが、ゼルデス氏への謝辞を見てなるほどと理解した。 本書は、ラテン文字アルファベットを用いる英語圏の読者を想定して書かれている。そのため、表音文字に親しんだ読者に、彼らの文字とヒエログリフがどのように違うかを見せながら、意外な共通点も指摘する。表語文字である漢字と表音文字であるひらがな・カタカナを混ぜて使用する日本の読者にとっては、ヒエログリフの仕組みに共通点を見いだすことが多いだろう。さらに、過去の西洋の類書にはない、中国語やマヤ諸語との比較など、西洋中心主義からの脱却の模索もかんがみえる。まさに、グローバル化し、世界中の文化や歴史にアクセスすることが容易になった現代のヒエログリフ解読史だといえる。 惜しむらくは、いささか物事を単純化している部分が少なからず見えることや、日本語訳で少々不正確なカタカナ音写や翻訳が成されている箇所があることである。しかしながら、これらは、エジプト学の専門家ではない著者や翻訳者の並々ならぬ努力が専門的な仔細に入り、一部及ばなかったという程度のものである。決して、本書の高い価値を脅かすものではない。本書は、入念なジャーナリスト的プロフェッショナリズムの結晶であり、二一世紀のグローバル時代にふさわしい、多元的な視座を有するヒエログリフ解読史の解説書であるといえよう。(杉田七重訳)(みやがわ・そう=国立国語研究所助教・言語学・人文情報学・エジプト学)★エドワード・ドルニック=アメリカのジャーナリスト・作家。『ボストン・グローブ』の元サイエンス・ライター主幹であり、『アトランティック・マンスリー』や『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』など多数の新聞や雑誌に寄稿。著書に『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』(アメリカ探偵作家クラブ賞受賞)など。