人間にあらざる存在を仮構する試み 栗原悠 / 早稲田大学国際文学館助教・日本近代文学 週刊読書人2023年5月5日号 「人間ではないもの」とは誰か 戦争とモダニズムの詩学 著 者:鳥居万由実 出版社:青土社 ISBN13:978-4-7917-7523-1 「人間は生まれながらに平等な権利を持つ」。かような理想を謳ったアメリカ独立宣言(一七七六)、フランス人権宣言(一七八九)は、むしろなぜそのような意識が希薄な時代に起草されたのか。リン・ハント『人権を創造する』は、まず一八世紀の書簡体小説の登場に注目し、他者も自分と同じ感情を持つという読者の作中人物への共感醸成が、その後の人権議論の素地を用意したとする。権力や法ではなく、フィクショナルな言説こそがそれ以前には言語化され得なかった人権概念の淵源になったと見るハントの指摘は、ある意味で認識論的な転回と言えるだろう。 一方、一九二〇―四〇年代の日本に目を向けると、そこには社会の諸意思決定の場から疎外された女性や資本体制がもたらす過酷な環境に喘ぐ労働者の姿が見出される。やがて戦争は、あまねし人々を例外状態(アガンベン)に置き、人間主体の尊厳が著しく損なわれる時代に突入していった。鳥居万由実『「人間ではないもの」とは誰か』は、かような時代のモダニズム―戦争詩に頻出する機械や動物のモチーフを、人間にあらざる存在を仮構する試みとして読み替えていくが、時に他者の共感を峻拒するそうした詩とその読解は、ハントとは対照的に人間の主体性を揺さぶり、革新を促す破壊=創造的な言語行為でもある。 さて本書は、章の順に左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴の六詩人を取り上げ、前三者のモダニズム詩を論じた第一部と後三者の戦争詩を論じた第二部によって構成されている。第一部では、萩原朔太郎の影響下に出発した上田が『詩と詩論』同人のなかでも際立つ主体性への疑義を鮮明にしていった論理を辿りつつ、既存の論によるモダニズムを一括りにした批判を問い返す行論には説得力があった。また初期の自然との調和をおおらかに詠んだ農村詩から機械文明の発達した都市の洗礼を受け、身体感覚を解体する尖鋭な表現を練磨させていった萩原という見立ても興味深い。だが、白眉は昨年全集が編まれ、脚光を浴びている左川ちかを論じた冒頭の章だろう。ここで絶えず他者の視線に晒される女性詩人という存在を脱ぎ去り、昆虫へとアモルフォスな変態を遂げていく左川の試行を捉えたところに本書の企図が最もよく表れているのではないか。 他方、第二部では在外体験による隔絶感や智恵子との出会いを経て「猛獣篇」に形象化された高村の動物観が、次第に膨張していったナショナリズム的志向に塗り替えられてしまったプロセスや、逆にその国家という大きな主体に籠絡されないアブジェクトの思考を金子の抵抗詩に見出す論理も詳述されている。しかし本部では、機械との一体化を幻視する独自のプロレタリア詩からの転向後、超規的な主体(天皇制国家・日本)に自らを擲った大江の変節を、バタイユの至高性の問題を媒介に連続として描き直す批評的な解釈が最も印象に残った。そもそも議論の乏しかった大江詩を読むために、一つの視角を確立し得た意味は小さくない。 以上のように本書では、一九二〇―四〇年代のモダニズム―戦争詩のなかに描出された非人間的なモチーフを広い視野で捉えながら、現代にも通じる人間の主体性への鋭利な問いが展開されている。しかしそうした試行が戦争の末期的な状況のなかにかき消されたとするならば、それはその後どのような形で継承されていったのか、いま少し先の時代に及ぶ見通しもほしかった。たとえば大江については近年一九五〇年代のハンセン病患者との交流などに目が向けられているが、そうした動向を考えるにも本書の視点は無視し得ないし、金子光晴も戦後の膨大な文業とどう連接していくのか検討の余地があるはずだ。こうした疑問はありつつも、むしろそのような問い自体が本書によって啓かれたものだとすれば、著者の問題意識の先にさらなる議論が惹起されてくることに期待したい。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本近代文学)★とりい・まゆみ=文学研究者・詩人・英日翻訳家。第一詩集『遠さについて』で中原中也賞最終候補。他の著書に『07.03.15.00』など。一九八〇年生。