「文字の暴力性」、語りの場を分かち合う 末次智 / 京都精華大学教員・琉球国文化/言語文化(うた) 週刊読書人2023年5月5日号 語りと祈り 著 者:姜信子 出版社:みすず書房 ISBN13:978-4-622-09569-9 魅力的な書名に惹かれて、著者の仕事を手にした。本書に満ちる反近代の志向に共感しつつも、なぜこれほどまでに強い思いを抱くのかとページをめくった。現代文化のあり方に違和を感じ、これを克服しようとして反近代へと向かうことはある。だが、著者の場合、それだけではないことが、終盤で明らかになる。「在日として日本や韓国で体験する『民族』や『伝統』とは異なる風景を私は中央アジアで見たのでした」。具体的には、まず「在日」という自己のあり方を問うなかで、さらに日本と朝鮮の間に挟まれたその居場所の息苦しさに耐えかねて、「コリアン・ディアスポラ」の地を訪れ、そこで「文字の暴力性」について考えるようになる。文字とはすなわち「国家」であり、これとお別れしたいと著者は述べている。 本書は、二〇一八年四月から一年間、学習院大学で行われたゼミの記録でもある。著者はそこを語りの場にしたといい、学生に語りへの扉を開くために「前口上」を懸命に行った記録が本書でもあるという。なるほど、大学における少人数のゼミは、生の声が届く範囲であり、まさに現代の語りの場というにふさわしいのかも知れない。だから、読み進めるうちに、自在な語りの文体により、出席していた学生がおそらくそうであったように、私も著者の語りに引き込まれていった。 まず取り上げられるのは「説教」と「祭文」である。これらの演目、たとえば「さんせう太夫」の系譜をたどりながら、どれも生きているという。私にとって興味深かったのは、説教と語りの両者が「歌をその本質とするからこそ、『語り』は『語り』たりうる」という視点であり、それは生きた声であり、「無数の無名の声」であった。文字とは無縁な口誦芸能が、宗教と娯楽の境界線上に息づいていることは、私たちの身近でもまだ実感できることがある。著者が実際にユニットを組んでいる説教祭文語りの渡部八太夫は、これを教えてくれる師匠が無いなかで、残した音源を採譜して、名人と讃えられた十代薩摩若太夫内田総淑の語りを再現した。だが、一方で、過去の音源をそのままなぞるのは「芸能者」の営みではない、「俺は説教祭文再生機械ではない」と言い切ったともいう。これを著者は「芸能者の魂」と呼んでいる。 次に取り上げるのは、瞽女である。これを追い求めるなかで、彼女たちの唄がなぜ消えていったのかを問う。現代の私たちは、それが何を歌っているかに関心を寄せるが、著者は「そこで何が語られ、何が歌われたということももちろん大事ですが、わたしの声もあなたの声も同じように『場』を分かち合ったという、その感覚こそが大事」だと述べる。その感覚を持っていた「瞽女」という視点を、私たちは忘れ果てているのではないかと問うている。瞽女のような存在がもたらすこのような場は、他の誰かの大きな声にのまれず、理不尽に支配されないための「拠り所」となる。著者の信念は揺るがない。 浪曲も、そのような芸能者によって担われる表現である。鎮魂のために「平家物語」を語る琵琶法師の声にも死者たちの声を聞き届け、巫者を通して、著者の出自である朝鮮のパンソリにも通じている。このような語りの最新形としての浪曲を担うのは、実は日本人だけではなく、朝鮮人といった「異人/マレビト」としての芸能者でもある。一方で、その新たな語りである浪曲が衰退するのが日本の高度成長期であり、そこでは「密室での対話」に喩えられる「書き手と読み手の孤独な対話(黙読)」が求められ、生の声が消えていったとする。表現の中心が文字に移行したのだが、これを超えようと、著者は自らも語りを実践するのである。 著者の口上は、まだ続く。現代の語り部としての石牟礼道子と水俣の患者たち、日本列島最西端の与那国島の歌、さらに在日の詩人・金時鐘の詩等が語りの場に呼び出される。宮沢賢治のいう「きちがひ」はケモノであり、自らをそのように認識している著者だからこそ、そのような生きる場、語りの場が必要なのであり、単に過去の表現、生き方を懐古しているのではない。「『声』と『場』と『人』と『物語』の関わり方のよみがえり」を目指しているのである。そのことが「近代以降の『声』と『場』と『カミ』と『権力』の問題を問い直すこと」につながるのだ。さらに、そのように語ること、歌うことは「祈り」であると信じている。気づくと、私も本書という語りの場に引き込まれ、祈っていた。著者の生の語りが聴きたくなった。(すえつぐ・さとし=京都精華大学教員・琉球国文化/言語文化(うた))★きょう・のぶこ/カン・シンジャ=作家。著書に『声 千年先に届くほどに』『現代説経集』『平成山椒大夫 あんじゅあんじゅさまよい安寿』『忘却の野に春を想う』(共著)など。一九六一年生。