迷わぬよう照らされる六朝研究の泰斗によるあかり 中村直登 / 大阪大学大学院人文学研究科博士前期課程・中国文学・宋代文学 週刊読書人2023年5月5日号 読書漫筆 著 者:吉川忠夫 出版社:法藏館 ISBN13:978-4-8318-7763-5 吉川忠夫氏は、中国の文学・歴史学・哲学に博通する碩学であり、その書評には定評がある。本書には一般の読者のみならず、中国学の初学者から専門家まで幅広く楽しめる味わい深い書評・それに類する性質の文章が集められている。その章立ては「解説解題」「書評」「学会動向」「編者序文」「三余余禄――『中外日報』社説から」の五章からなる。 『読書漫筆』と題された本書の精髄は、「はじめに」で明示されていると言えよう。氏の先師であるという宮崎市定の言葉を訓戒として、「他人の著書を評するにあたっては著者の立場を十二分に咀嚼したうえでなされなければならぬ」、そのためには「何よりも評者のしかるべき見識を必要とするであろう。筆者の主旨をただなぞるだけでは書評にならない。だがかと言って、悪口をならべたてるだけでは著者に対して非礼というものだ」と述べる。なるほど、この訓戒は本書全体にもはっきりと通底しているのである。つまり、書評の対象となるテキスト(書物)の内容のみに触れるのではなく、つねにその著者の主張、執筆当時の背景などを視野に置く。氏による書評は博識さと豊かな想念、深い観察をもって鮮やかに論じられているのである。 たとえば、第一章「解説解題」では『史記』をめぐって、内藤湖南『支那史学史』や宮崎市定『史記を語る』といった名著の解説が収録されている。これらを通読すると、『史記』というテキスト、それを扱う内藤湖南や宮崎市定の立場・背景、さらにそれを踏まえた吉川氏の視点がみてとれよう。テキストとその著者、そして評者という三者鼎立の姿勢が一貫していて、かつその比重にはかたよりがなく、しっかりとまとめられている。読者はテキストの内容を追いながら、あたかも吉川氏の講義を受けているが如く、楽しく学ぶことができる。 第二章「書評」は、『春秋左氏伝』といった古典の翻訳、『六朝思想史研究』や『六朝道教史研究』など中世の思想、その他文化にまつわる書評を採録する。何れも氏の専門とする領域であり、その見識が存分に発揮されている。吉川氏は著者の解釈に対して誤りを指摘するとき、一方的な批判にならないよう配慮しながら指摘している点が見事である。思うに、それは文献を博捜し、注意深く読んで書評にあたる氏の真摯な姿勢のあらわれであり、また上述の訓戒にも通ずるであろう。 第三章「学会動向」は『史学雑誌』の企画である「回顧と展望」のテーマに基づき、一九六四年度と一九七三年度に発表された魏晋南北朝期に関する論文・著作を対象とする。一年間という区切りを設けて、その年の学界における傾向や方向性をまとめるという試みは容易ではないと想像するが、切り口となっているのは氏が関心を示すポイントであり、学界史を知るうえでも、興味深い。 第四章「編者序文」。この章は『中国古道教史研究』、『六朝道教の研究』など共同研究班による研究報告となった前著の序文を中心に収めている。序文という性質上、個別の論文について簡潔に概要が述べられるのみであるが、それでも充分な読み応えがあり、熟読してしまう。 とりわけ、イレギュラーで、楽しく読めるのは第五章「三余余禄―『中外日報』社説から」である。この章では『中外日報』に社説として掲載されたものを収録しており、前著『三余録 余暇のしたたり』(中外日報社、一九九六年)、『三余続録』(法藏館、二〇二一年)の系譜に位置づけられよう。「三余余禄」の辞書的な意味を挙げれば、「三余」は読書に最適とされる三つの環境、すなわち冬(歳の余)・夜(日の余)・陰雨(時の余)のこと。「余禄」は予定外の利益のことを指すが、前著の「二書に収めたものを除いた残余」の意味であるらしい。これまでの章が外部から依頼を受けて執筆した文章であるのに対し、「三余余禄」に収められるのは「あつかう対象からして、すべてが私自らの意志の産物とよんでよい」ものである。それ以前の章と比較すれば明らかであるが、思考が自由に飛び交い、かといって乱雑にならず、文章からは日常の読書を楽しむ吉川氏の姿がありありと浮かび上がってみえてくる。読者もつい、同じ本を手に取ってみたくなることであろう。一篇の長さも短く、読みやすい。 以上、すべての章に詳しく触れることはできなかったが、各章について私なりにまとめてみた。本書を通じて読み取れる吉川氏の人柄について、一度もお会いしたことがないにもかかわらず、あれこれと書いてしまった。しかし書評を書く上では著者の立場を十二分に咀嚼せねばならないのであり、私なりに熟考した結果である。 中国の長い歴史には、莫大な古典籍・文献・先行研究が連綿と横たわっている。このような文献資料の沃野に立つとき、例えば私の専門にひきつけていうと、北宋時代の士大夫の文学のみを勉強していても視野が狭く、研究に奥行きが出ない。そこから芋づる式に関連する北宋以前の文学、歴史学、哲学などの文献についても幅広く視野に入れることが必定なのである。それはこの学問の性質上、仕方のないことではあるが、私を含めた初学者や新来の志学者からすれば、やはり広大な中国学はとっつきにくさがある。本書は、そうした中国学への抵抗を払拭し、壮大な学問の森に立ち入り、惑わないためのあかりでもある。『論語』為政篇にみえる言葉を借りるならば、知命にして耳順なる吉川氏の、本書にみえる心のままに矩を踰えざるまなざしこそは、我々の目指すべきところであろう。(なかむら・なおと=大阪大学大学院人文学研究科博士前期課程・中国文学・宋代文学)★よしかわ・ただお=京都大学名誉教授・日本学士院会員・中国史。一九六四年に京都大学大学院文学研究科を単位取得退学。二〇〇六年より日本学士院会員となる。二〇二二年、文化勲章を受章。著書に『劉裕』『三余続録』『侯景の乱始末記』『顔真卿伝』『王羲之六朝貴族の世界』『読書雑誌』『六朝精神史研究』など。一九三七年生。