『人間の条件』をまんべんなく読み取く 橋爪大輝 / 山梨県立大学講師・倫理学 週刊読書人2023年5月5日号 精読 アレント『人間の条件』 著 者:牧野雅彦 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-531428-9 本書は、ハンナ・アレントの主著『人間の条件』(以下『条件』と表記)をはじめから終わりまでまんべんなく読み解いたものである。著者は本書とほぼ同時に『条件』の新訳(講談社学術文庫)も刊行しており、本書はその「副読本」といった趣きもある。 その新訳『条件』から本書はそのつど引用を取りながら、それにコメントを付していくというスタイルで、いわば〈アレントをして語らしめる〉形で議論を進める。それと同時に、アレント自身が参照している社会思想や哲学の古典的文献も、著者自身が(アレントの解釈を紹介するだけで済ませず)直に当たって検討しており、適宜はさまれる古典的文献の正確な引照が、『条件』を解釈するうえでの補助線として機能する。特定の章や議論に過度に肩入れしてバランスを崩すことなく『条件』の全体を公平に扱い、テクストにどこまでも忠実な姿勢は、思想史家の面目躍如たる仕事である。 『条件』の解説に主眼が置かれているものの、オリジナルな論点も本書には含まれている。その一つは、「マルクスとの関係を軸に『人間の条件』を読んでいく」(一三頁)という方針である。これまでも、たとえば労働論等に限れば、マルクスの影響や彼との対決を意識した研究は数多く存在してきた。だが『条件』という書物全体を、マルクスを軸に据えて読み解く試みはおそらくない。 たとえば著者は、生命として被る自然的条件を前提としつつ、自らの活動によってその条件そのものを作り変えていくという人間の在り方を『条件』の主題と見定め、それをマルクスの『資本論』における「自然と人間の物質代謝」という問題設定の継承と捉える。だが、マルクスがそのような人間的世界の形成を「労働」に託したのにたいし、アレントはそれを「仕事」に託す。というのも、アレントにとって労働は自然の循環のうちに留まるものだからだ。マルクスその人のテクストにも逐一立ち帰ることで、大きな枠組みの連続性を背景とした繊細な変化を照らし出している。 同様のことは、「分業」という概念にもいえる。マルクスは自然を作り変える労働の「生産力」が、「分業」を通じて増大すると捉える。分業において、工場手工業(マニユフアクチユア)から機械制大工業へという進化が起こるなかで「人間とその制作物たる機械との関係の逆転が起こる」(一四三頁)。マルクスはこうした生産過程の発展において変革主体が形成されてくると見るが、アレントは同じ過程のうちに、「仕事」が「労働」へと変容して自然的な「物質代謝」の過程に戻っていく様子を見る。機械化された生産は、自然的なリズムをもつ反復労働となり、ひいてはオートメーションという自動化された過程へと変貌するからである。それゆえ、アレントからすれば、労働は真に人間的な空間を作り出すことはない。 代わりに真に人間的な空間の形成を託されるのは、人間の行為によって産出される「権力」である。この権力もまた、著者の思想史的な視界のなかでは、ヘーゲルの「精神」を経て、本来マルクスにおいて花開くはずだったアリストテレスのデュナミスとエネルゲイアの概念を、アレントが遡って継承したものとされるのだ。彼女はそうすることで、マルクスのように人間のすべての活動を労働に還元して、本当に自由な活動の余地を失わせるという弊に陥ることなく、権力の「実現態」としての「公共空間」を構想する。 このような読解のラインは、著者がアレントの解釈と典拠とを丁寧に照合することによって、はじめて浮かび上がってくるものだ。評者はこの見方にかならずしも賛同するものではないが、刺激的な解釈である。その正否は今後の研究によって検証されていくだろう。 いずれにせよ、『条件』の全体を公平に扱った入門書が思いのほか少ないなか、今後『条件』を学ぶうえで一つのプラットフォームとなりうる一書が出版されたことを、まずは素直に喜びたい。(はしづめ・たいき=山梨県立大学講師・倫理学)★まきの・まさひこ=広島大学名誉教授・政治学・政治思想史。著書に『ウェーバーの政治理論』『歴史主義の再建』『ハンナ・アレント 全体主義という悪夢』など。一九五五年生。