新しい生物学的認知の枠組みを提唱する 竹田扇 / 帝京大学医学部教授・解剖学・細胞生物学 週刊読書人2023年5月12日号 免疫から哲学としての科学へ 著 者:矢倉英隆 出版社:みすず書房 ISBN13:978-4-622-09600-9 「幾何学の精神(l’esprit de géométrie)と繊細の精神(l’esprit de finesse)」(Pascal,B)、「タコツボ型とササラ型」(丸山眞男)、“The Two Cultures”(Snow,CP)などなど。本紙の読者であれば、恐らくこれらのキーワードで表象されるものを共有するのではないか。そして評者がなぜこれらを冒頭に掲げたのか、慧眼の諸氏は既に本書の提要を悟ったかも知れない。 敢えてこれらの用語を使っていささか乱暴な要約を試みるならば、免疫学の専門家が「幾何学の精神」に則って「タコツボ型」の研究生活を送っている中でThe Two Culturesの存在に目覚め、「繊細の精神」を用いて自らの研究領域を省察することで学問は「ササラ型」であった、と認識するに至る精神の歩みを綴った記録であるともいえる。さらにそのような視座をもつことによって「生命をどのように認識するか」、という人間精神の根源的な問いかけに対する一つの回答例を与えることに成功している。ここに、単なる生命科学論には終わらない本書の魅力と独自性を見出すことができよう。 著者は一五年ほど前に現役の免疫学研究者を引退してからフランス・パリに渡り、ソルボンヌで科学認識論、科学技術史を修めた。我が国では、このような第一線の専門家がThe Two Culturesを渡り歩き対極の分野に鞍替えすることは珍しいとされる。その契機となったのは、著者のことばを借りるならば約三〇年に及ぶ免疫学の研究生活において、「免疫というものの全体あるいは本質は何なのか(中略)、というような根源的な思索が欠落していた」という自己省察であった。 これを起点とし、その後約八年に及ぶ自由な学究生活で深めた思索を纏めたのが本書である。全体の約1/3を占める第一章は免疫学史ともいうべき浩瀚な総説で、文献に基づいて複雑な免疫理論の消長を中心に丁寧に説明している。読者はすでにここに「第五章 免疫の形而上学」や「終章 新しい生の哲学」への萌芽を見出すかも知れない。またこの章は現代免疫学が成立した思想背景を理解する上でも好適なガイドであり、その意味ではThe Two Cultures双方のサイドにとって資するところが大きい。 第二章以下では著者が「はじめに」で謳っている「科学の形而上学化」に向けた試論を、まずは自己免疫、共生といったいくつかの免疫学領域で展開している。その中で免疫系が情報感知システムとして根底では神経系とその属性を共有すること、さらに両者には不可分ともいえる相互依存性があること、などを最新の科学的知見を引用しながら敷衍する。 また免疫学がヒトを中心として発展してきた概念であることを指摘しながら、細菌における制限酵素やCRISPR-Cas9システムの存在や植物のパタン認識受容体などに、その相似器官的役割を見いだしている下りはユニークである。このような博物学的興味を搔き立てられる考察を提示しながらも、二〇世紀後半からの神経中心主義(neuroessentialism)を暗に批判し、新しい生物学的認知の枠組みを提唱しているあたりは本書の真骨頂であろう。 いわゆる要素還元主義が生物学に導入されるようになって久しい。その眼差しにより生命現象の理解が大きく進んだ。同時に、生命科学研究はつまらなくなった、あるいはある種の閉塞感を感じるようになった、という言説が評者を含めた現役の生命科学研究者の本音でもある。他方、要素還元主義を批判するのは簡単であるが、それを超克することはある意味「自然科学」という知的遊戯の本質そのものを否定することにも繫がる。この難題とどう折り合いをつけていくのかと沈思する時、本書は好適なプラットフォームを与えるものと思われる。 全体を緻密な記述で貫くことで、初出概念についても読者がある程度イメージできるようにはなってはいる。しかしながら、理解を容易にするには概念図など視覚資料を要所に差し挟む工夫があるとよかったのではないか。ただ、それを差し引いても本書が優れた生命論であることに変わりはない。(たけだ・せん=帝京大学医学部教授・解剖学・細胞生物学)★やくら・ひでたか=サイファイ研究所ISHE代表・病理学・哲学・科学認識論・科学技術史。著書に『免疫学者のパリ心景 新しい「知のエティック」を求めて』、訳書にフィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』パスカル・コサール『これからの微生物学』など。