身体という「制約」をいかに考えるか 丸本高己 / 京都大学大学院文学研究科博士後期課程・宗教哲学 週刊読書人2023年5月12日号 ロボット学者が語る「いのち」と「こころ」 著 者:石黒浩 出版社:緑書房 ISBN13:978-4-89531-873-0 人間は何のために生きるのか。ロボット学者の答えはこうだ。「人間は人間を理解するために生きている」。曰く、人間が進化をつづけるためには、技術によって自らの能力を拡張しつづけなければならない。そしてそのためにはまず人間自身のことを知り、理解する必要があるのだ、と。 「人間は技術によってさまざまに身体を拡張できる」。著者が抱くこの確信は、自身が長年携わってきたロボット工学の成果の賜物であろう。本書の中でも、アンドロイド、対話ロボット、ブレインマシンインターフェイス等々、さまざまな技術がその傍証として紹介されている。特に読者の目を引くのは、アバターだ。それは、遠隔操作ロボットやCGのキャラクターに乗り移ってそれらを自在に操作する技術のことである。アバターは、例えば福祉の分野においては、身体機能が衰えた高齢者の新たな体として機能してくれるだろう。労働の分野においては、現地に一台アバターを用意しておくことで、自国にいながら海外で働くことを叶えてくれるだろう。さらに、アバターに常人以上の身体・認知・知覚の能力を搭載すれば、人類にできなかったことさえできるようになる。例えば従来の人類よりも敏感な嗅覚を獲得することだってできるかもしれない。アバターはまさに、生身の人間を拘束していた制限、既存の「いのち」の制限を超克することを可能にしてくれる技術なのだ。 だがそれだけではない。アバターはさらに「こころ」も拡張するのだとロボット学者は語る。例えば、ある高齢者が小型のかわいいロボットに乗り移った際には、普段とはまるで異なる別の人格で話をしていたのだと言う。もはや「こころ」は、もともとの生身の体と一致している必要はないのだ。こうしてアバターという新たな体を手に入れた操作者は、そのアバターの能力に応じて、新たな「こころ」までも手にする。 著者が述べる「進化」とは、このように生身の人間身体を克服していくことで、「いのち」や「こころ」を拡張しつづける営みのことに他ならない。可能性に満ちたこれらの技術が紹介される中で、読者はSF小説を読んでいるかのような驚きを味わうことであろう。あるいは、そんな技術が現実にもうすぐそこまで来ていることに、期待に満ちた高揚感さえ覚えるかもしれない。技術によって拡張された人間は、何を感じ、何を思うのだろう、と。本書では、まさにそんな疑問から興味深い洞察が導き出されている。それは、「人間理解には限りがない」という洞察だ。人間は自己自身についての「理解」にもとづいて自ら拡張できるが、すると今度は、その新たな人間の姿を改めて「理解」しなければならない。こうして人間の自己理解という営みは果てしなくつづくであろう、というのだ。――ここにはある種の解釈学的循環があるが、それは、まさに技術者ならではの視点から提起された新たな解釈学的循環の姿と言うべきものである。この点、本書の議論はたしかに新鮮だ。 しかし他方で、本書が唱導する華々しい「進化」の裏側には、問題点もさまざまあると言わねばならない。最大の問題は、身体軽視の態度が前提とされている点である。著者は、身体のもつ物質性がまったくない状態を「純粋な精神体」と呼び、その状態に可能な限り近づくための手段として、技術を位置づけている。ここでは身体は、もっぱら人間の可能性を「制約」するネガティブなものでしかないのだ。 だが著者自身も認める通り、人間が生きている限り、身体の物質性を完全に消し去ることはできない(「完全に体が消え去れば、「いのち」を維持するものがなくなる」)。それにも関わらずなお、身体の物質性を感じない状態を最高の理想形とするのだとすれば、どのような結論が待ち構えているだろうか。――そもそも最初から身体が存在していない状態、すなわち最初から人間が生まれていない状態こそが最善であった、という結論であろう。というのも、どれほど技術が進んでも身体は残る以上、技術によって拡張された「いのち」さえも、身体がはじめからなかった状態に勝ることはあり得ないのだから。〈生まれてこない方がよりよかった〉――本書が前提としている身体軽視の態度は、まさにこのようなペシミズムに陥る可能性を胚胎しているようにも思われる。たとえそれが、〈技術によって人間は改良することができる〉というオプティミズムによって覆い隠されているのだとしても。 本書はたしかに先進的な近未来の姿を開陳している。しかしそれを下支えしているのは、極めて近代的な心身二元論にもとづく身体軽視の思想である。この思想の限界や問題点を指摘する言説は、19世紀のニーチェを皮切りに繰り返し登場してきたにも関わらず、本書においてはそういった指摘が等閑に付されているようだ。今必要なことは、本書が提唱するように身体という「制約」を克服することではなく、むしろ、身体を「制約」としてのみ捉える態度そのものを克服することなのではないだろうか。(まるもと・こうき=京都大学大学院文学研究科博士後期課程・宗教哲学)★いしぐろ・ひろし=大阪大学教授・ロボット学者。著書に『ロボットと人間』など。一九六三年生。