スポーツの「アウラ」を取り戻すこと 小笠原博毅 / 神戸大学教授・カルチュラル・スタディーズ 週刊読書人2023年5月12日号 シニカルな祭典 東京2020オリンピックが映す現代日本 著 者:阿部潔 出版社:晃洋書房 ISBN13:978-4-7710-3699-4 「死を先取りした視座」からスポーツを見よ。社会学者として、日本国内の状況とグローバルな環境をともに見据えて東京オリンピック/パラリンピックを批判してきた阿部潔が、前著『東京オリンピックの社会学―危機と祝祭の2020Japan』(コモンズ、二〇二〇年)に続いて著した本書でたどり着いた結論である。二〇一三年の東京招致決定以来開催反対の論陣を張ってきた評者にとって、阿部のオリンピック批判は常に心強い伴走者だった。しかし同時に、ある種の不満が消えなかった。それはまず、本書のタイトルにもある「シニカル」さが阿部本人の言から読み取れてしまうことだった。前著で阿部は、開催後に顕になる/実際なった「負のレガシー」を列挙し先取りした結果、それらをシニカルに語らざるをえないという憂鬱を引き受けてしまった。そして本書では、東京2020が「なんとなく」開催されたことで、阿部が〈わたしたち〉として問題化する現代日本社会の不都合さと、開催国の経済的心的エネルギーと参加アスリートの身体エネルギーを収奪して成立するオリンピックの構造とがともに浮かび上がってきたのだという論理が展開されている。しかし、それでは開催されなければそれらはまだ水面下で隠されたままだったということになりはしないだろうか。つまり、「なんとなく」であれ「不都合」であれ、やったからこそ明らかになる問題があったのだから、結局やってよかったというオリンピックの批判的賛成派、言い換えるならば、明らかになった現在の問題を解決して「本来」のオリンピックに戻そうというクーベルタン原理主義者に同調することになってしまうのではないだろうか。 ところが本書の最後に展開されるアクロバティックな跳躍によって、このような揚げ足取りはあっさりと退けられる。「勇気」「感動」「持続可能性」「レガシー」といった、未来へと長く続けることを是とするⅠOC(国際オリンピック委員会)のイデオロギーに対峙させて、阿部は、「スポーツが体現する一度かぎりの、もとに戻せない、その場で尽きる指向性」(一六六頁)を「死」と読み替え、ここにスポーツをオリンピックから引き剝がす可能性を見い出している。ヴァルター・ベンヤミンを念頭に置いて未来など簡単に措定せずそれを現在に折り込めと説く英国の文芸批評家テリー・イーグルトンを引きながら、スポーツという身体行為が〈常に終わること=「死」を迎えること〉を、より普遍的な目線で捉え直せという阿部のたどり着いた境地は、オリンピックを生の躍動がもたらす祭典だとする一見「ポジティヴ」な見解の対局にある。スポーツとは厳しく規律化された身体が元に戻れない「一回生」を繰り返すことにほかならない。「死」は反復される。連綿とした連続性ではなく、「終わり」の反復にこそスポーツの醍醐味を見定めようとするのである。 スポーツが生の躍動だと考える人々にとっては、まったく風上にも置けないような言い草であろう。しかし、その世界の風上にも置けないやつが、その世界の救世主になることは珍しいことではない。長距離走をこよなく愛するスポーツの実践者として何度も「死んだ」ことのある阿部だからこそ、オリンピックが隠し通そうとしているスポーツの「アウラ」を再発見すべしだと言えるのだ。社会学者という仮面の脇から長距離走者の孤独がふと覗き見られる、そんな本である。(おがさわら・ひろき=神戸大学教授・カルチュラル・スタディーズ)★あべ・きよし=関西学院大学教授・メディア/コミュニケーション論。一九九二年、東京大学大学院社会学研究科を単位取得満期退学。一九九五年、同大学大学院にて博士号(社会学)を取得。著書に『東京オリンピックの社会学』『監視デフォルト社会』『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』『彷徨えるナショナリズム』『日常のなかのコミュニケーション』『公共圏とコミュニケーション』など。一九六四年生。