「死なない」ための生存戦略と「サード・プレイス」 杉谷和哉 / 岩手県立大学講師・公共政策学 週刊読書人2023年5月19日号 教室を生きのびる政治学 著 者:岡田憲治 出版社:晶文社 ISBN13:978-4-7949-7359-7 政治について、時に静かに、時に熱っぽく、様々な角度から論じ、その「語り」には常に生活感が漂う――唯一無二のスタンスで政治(学)への入門の手解きを担ってきた著者の最新作は、中高の「教室」が舞台である。と言っても、「Z世代」の触れ込みのもと活躍しているような、煌びやかな人々は登場しない。政治なんて考えたこともない、考える必要も感じない、そういった生徒たちが本書の主役である。 政治学の入門書らしく本書においても、権力や議論、平等や連帯といった政治学の重要概念が登場する。セオリー通りならば、これらと関連する著名な思想家や政治学者の名前が登場するが、著者はこれらの概念をあくまでも教室に結び付けて説明する。理不尽な校則、学園祭の出し物といった、中高生にとって身近な話題が登場し、そこで起きる問題を、丁寧に解きほぐしていく。 手を替え品を替え、普段の学校生活の困難さと、その対処法について著者は論じていくが、目的は極めて明快である。評者なりに要約すればそれは、「死ぬな」という一言に尽きる。本書では随所で、少なくない十代の子どもたちが自死を選んでいる現実について触れられており、この悲劇を少しでも食い止めることが目的であると伺える。 その目的を達成すべく本書が描き出す生存戦略は、多様である。わけても重要なのは、失敗は許されない、ちゃんとしないといけない、といった強迫観念から自由になり、失敗を前提とした民主主義というあり方を体得することにある。 思えば、先の大戦を経た戦後政治学は、軍国主義の台頭を反省し、「ちゃんとした市民になりましょう」というメッセージを放ち続けた。理想は、「自分のアタマでちゃんと考えられる自立した市民が集う社会」である。しかし、そんな社会は到来していないし、「自分のアタマで考えた結果、新型コロナウイルスは噓と気づきました!」と論じる陰謀論者たちが世界を揺るがしている。モノを知っている人達は、「教育がダメだ」と言う。何がダメなのか? カリキュラムをいじり、気の利いた教科書をつくり、教員の待遇を向上させればそれでいいのか? 本書はその執筆意図とは裏腹に、「教育は学校でやるものでしょう」と責任を押し付けながら、民主主義の未成熟を嘆いてみせる、「我々=大人たち」にこそ鋭く刺さる。それは、著者が最後に繰り出す生存戦略が、学校でも家でもない、「サード・プレイス」の確保にあるとしている点と関係する。教室を卒業し、先生でもない大人たちにできるのは、「サード・プレイス」の準備であり、失敗した人たちを責めずに、「セカンド・チャンス」をできるだけ与えることだろう。本書を通じて、今を生きる十代たちの苦しみを理解した我々は、彼ら彼女らが「教室を生きのび」られるよう、すべきことがあると気づくだろう。 以上が、本書の概要と評者が受け取ったメッセージである。最後に、蛇足を承知のうえで、「サード・プレイス」にまつわる、個人的な経験について記しておきたい。 評者は大学院生の頃、居住していた学生寮を大学側から追い出されるという目にあった。理由は、建物の老朽化である。文化的な価値があり、歴史もある建物を補修し、大切に使い続けたいとする寮生側の訴えは一顧だにされず、型通りの「対話」の場で、副学長は寮生を恫喝する始末。現在、大学側が学生たちを民事裁判で訴訟する事態にまで至っている。当時、大学のトップにいた人物は、学術界の良心としてあらゆる所に引っ張りだこである。 寮は本書が言うところの「サード・プレイス」であった。家庭に問題を抱えている学生もたくさんいた。授業に行かなくても、一日中ゲームをしている奴らがいても、責めたり馬鹿にしたりする人はだれ一人いなかった。いいことばかりでは当然なく、理不尽な思いもたくさんしたが、ぶつかりながらも互いに認め合っていた。彼ら彼女らと過ごした日々を通じて、評者もまた「自立」できたのだと思う。しかし、評者は学んでいた政治学を、詳しかった筈の「政治」を、かけがえのない「サード・プレイス」を守るうえで、全く活用できなかった。本書を読んで思い出したのは、学校の教室だけでなく、寮で過ごし、挫折を重ねた日々でもある。 もし著者が、「政治を役立たせ損ねた政治学者」との会話を厭わないのであれば、このささやかな経験について、いつか語り合ってみたい。(すぎたに・かずや=岩手県立大学講師・公共政策学)★おかだ・けんじ=専修大学法学部教授・政治学・現代デモクラシー論。著書に『静かに「政治」の話を続けよう』『ええ、政治ですが、それが何か?』『なぜリベラルは敗け続けるのか』『政治学者、PTA会長になる』など。一九六二年生。