中上健次をめぐる論考の熱気 旦敬介 / 明治大学教授・ラテンアメリカ文学 週刊読書人2023年5月19日号 ラテンアメリカン・ラプソディ 著 者:野谷文昭 出版社:五柳書院 ISBN13:978-4-901646-40-6 ラテンアメリカ文学の翻訳で知られる野谷文昭氏とはけっこう長いつきあいがある。一九八三年に知りあったと思うので、もう四十年になるのか、と驚きをおぼえる。そのころ野谷さんは三十代半ばで、今回の新著『ラテンアメリカン・ラプソディ』の中でも言及が多く今でも代表的訳業として記憶されているガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』とマヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』を訳し終えたばかりだったはずだ。駆け出しのころ、と本の中では言っているが、まだ大学の教授職についていない新進気鋭の翻訳者だったのである。僕はまだ大学院生だったが、二人で『ラテンアメリカ文学案内Fiesta de Letras』という日本で初めてのラテンアメリカ文学論集を編纂するために集結したときのことである。つきあいの期間は長いが、あまり飲み歩いたりする機会はなかったので、実は野谷さんの翻訳の業績以外のことはあまり知らなかった。『ラテンアメリカン・ラプソディ』は最近の二十年ほどの間に野谷さんが書いてきた文章をいくつかのテーマに分けて集成したもので、そこには自伝的内容に若干触れている部分もあるので、野谷文昭という人物を歴史の流れの中に位置づけて見ることができて、個人的にはなおさら興味深くなった。本書冒頭には東京大学での最終講義の内容も収められている。 野谷さんは一九四八年生まれなので、まさに団塊の世代ということになるとこのたび知って驚いた、というか違和感をおぼえた。野谷さんは、三十代の頃から現在まで、何か言いたいことがあるのだが少し言いよどんでいるような、はにかみのある青年のイメージの人で、七〇年代八〇年代の経済成長を支えたがむしゃらで脂ぎった日本人男性像とはまるで結びつかないからだ(むろん、このような団塊の世代イメージのほうがステレオタイプであって、まちがっているのだろう)。また、一九六〇年代後半の東京外大のスペイン語科で、彼がスペインの文学でなくラテンアメリカの文学を専門にした最初の人にあたるというのも、あらためて明確に認識することになった。彼の在学中、大学の図書館にはラテンアメリカの作家の小説はただ一冊あったのみだという(どの本だったかは本書を読んでのお楽しみ)。もちろん日本語への翻訳も一冊もなかったのである。一九六八年頃は世界的な「ラテンアメリカ文学のブーム」の絶頂期だったはずで、ガルシア=マルケスもバルガス=リョサもコルタサルも歴史的な大作をすでに出していたのだが、日本の外国文学界にはまだまったく波及していなかったことがわかる。ボルヘスすらも届いていなかったのだ。彼の先輩にあたる人たちは、もともとはスペインの文学の専門で、その後、ラテンアメリカ文学の勃興によって野谷さんのあとを追うようにして興味を転じていったのである。 本書の中で、もうひとつ際立って見えたのは、中上健次をめぐる論考の熱気である。著者はスペイン語講座の教科書への寄稿を求めて中上健次と知りあったようだが、新宿ゴールデン街で飲み歩くなどつきあいを深め、ラテンアメリカ文学についての指南をするようになった。ここに収められた複数の中上論では、ガルシア=マルケスを知ったことを通じて中上健次の小説世界に変容が生じたことや、それまでのヨーロッパや日本の文学になかった「過剰さ」がラテンアメリカの作家と中上の作品の間の重要な共通点であることが論じられていて、それはある意味で予想の範囲内なのだが、それにとどまらず、中上作品の家族関係の構図じたいを正面から論じているものがあることには意表をつかれた。そして、この論考においてこそ、不思議とラテンアメリカの作品を論じるときとはちがう熱気と精緻さが論にこもってきて、作品と本格的に格闘している雰囲気になるのだ。それは単に『枯木灘』の主要人物の一人が野谷さんと同じ名前の持ち主だからではないだろう。二人の間を結ぶものは何があったのか、と考えてみるのだが、見れば見るほど対照的なキャラクターなのである。著者は自分のことを「ビートルズ世代」と見ているのに対して、中上健次は二歳年上なだけだがジャズに猛烈に熱中した世代に属する。中上さんは紀伊半島の日本の謎の中心出身だが、野谷さんは関東の郊外(サバービア)出身である。もしかすると、対照的であるからこそ、中上健次のことを異人として、ラテンアメリカ文学の作品の中に出てくる登場人物のように見て、その生の中に引きこまれていたのかもしれないと考えた。そのような作家がいるというのは幸福なことである。(だん ・けいすけ=明治大学教授・ラテンアメリカ文学)★のや・ふみあき=東京大学名誉教授・ラテンアメリカ文学。訳書にガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』プイグ『蜘蛛女のキス』ボルヘス『七つの夜』バルガス=リョサ『ケルト人の夢』(日本翻訳文化賞)、著書に『ラテンにキスせよ』『マジカル・ラテン・ミステリー・ツアー』など。一九四八年生。