生物ではなく「生命」を 小島雅史 / 一橋大学大学院社科学研究科博士課程・哲学 週刊読書人2023年5月19日号 音楽と生命 著 者:坂本龍一・福岡伸一 出版社:集英社 ISBN13:978-4-08-789016-7 私たちが聴いているのは、既に「音」ではなく「音楽」であり、私たちが観ているのは、「生命」ではなく「メカニズム」である。現代の暮らしは、当然、歴史的に蓄積されてきた知見の上に成り立ち、私たちの認識もそうした知見を前提とする。だが、我々が直面する危機を呼び込んでいるのは、我々を支えているはずの知見そのものではないか。ともにニューヨークを拠点とし、長らく交流していたことから、今回の対談に至った二人は、互いの分野における第一人者だ。まさに過去の知見を引き継ぐものだ。そうした彼らが「言葉やロゴスの呪縛から、本来のピュシスとしての我々自身をいかに回復するか」(75頁)という問いを発している。本書全体は明るいムードを持つが、この問いの重さは並大抵ではない。 本書で語られる内容は様々だが、前半部part1でのポイントは、音楽も生物学もテクノロジーによる自然の切り貼りであることに対する二人の自覚だろう。音楽は、音を視覚化し、更にそれを分析し言語と成して理解するためのテクノロジーがあってこそ成立する。古代から存在する楽譜という方法もその一つだ。それらのテクノロジーがなければ「音」は「音楽」として結晶化しない。さらに、時代を追うにつれ、音そのものが記録・再現可能となり、「ライブ」演奏であっても巨大な装置――原発もその一つだ――が必要になっている。 坂本氏はそれとは別の方向性を模索していた。本書で繰り返し名が挙がる作品「async」(二〇一七)や、癌との闘いの狭間に作られた、映画「レヴェナント」(二〇一五)の音楽は、YMO期に代表されるかつての「テクノ」ポップではなく、「自然」の音を取り入れた豊かで優しいノイズだ。「人工的に作られたピアノを元の自然に戻してあげたい」(26頁)という坂本氏の思いと同様に、全ての音が、曲のための単なる「一要素」ではなく、豊かな「もの」として生き、我々の心音や呼吸と調和する。彼の音楽に込められた思想を読み取れるのも本書の美点である。 他方、生物学は福岡氏が指摘する通り、一生命体を機械部品のように分け、各部のメカニズムを明らかにすることに血道を上げてきた。それらの成果は、学術上の発見のみならず、我々の食事や生殖にまで影響を及ぼすに至った。自然を組み敷くのは人間の一つの本質である。その本質に関わる言語の頑なさ、その本質が導くAIの発展のナイーブさに言及しつつ、我々のものの見方を保留し、本来ノイズに溢れた自然、生命の在り方を直視することから再出発する。本書では福岡氏のそうした思想の一端が見える。 しかし、part2の議論からは、人は把握しようとしてもしきれないものとしてのピュシスを、ロゴス的営みの傍らで感じていたことがわかる。一部の身体機能を切除したにも拘らず通常通り生活する実験体マウスの存在、「作る」ことと等しく「壊す」働きがあってこそ維持される生命秩序の構造=「動的平衡」の存在。福岡氏が語るこれらの事柄は、ロゴスを超えるピュシスへの驚きを誘う。また、楽譜とDNAの共通点も興味深い。楽譜もDNAもそれだけでは実際の音や生命を表しきれない。演奏者・聴衆、遺伝子を持った細胞や個体の振る舞いによって、どんな音や生命が発現するのかは常に揺れている。その意味で音も生命もそれ自身特有の一回性を持つ。こうした個の唯一性を活かす音楽――「楽譜のない音楽」(162頁)――や科学の発展は有り得るのか。本書はそうした可能性を志向するきっかけを与えてもくれる。 最後に触れるべきこととして「死」の問題がある。福岡氏は個体の死は贈与、最大の利他的行為と述べる(150頁)。なぜなら、ある個体は自身が占有する空間・時間を死によって他に明け渡すとともに、分子・原子に分解され環境に戻り、他の生命の基礎となるからだ。 他方、人間は自己のための占有の技術を磨いてきた厄介な生き物である。だが、一瞬の生のなかで何かを遺せるのもまた人間の本質だ。坂本氏は生においても死においても多くを我々に贈ってくれた。それは各人が心のうちにしまい込むべきものでもないし、企業が飯の種にすべきことでは決してない。彼からの贈与を他のために活かす。本書を含む彼の営みから成すべきことはそれであろう。(こじま・まさし=一橋大学大学院社科学研究科博士課程・哲学)★さかもと・りゅういち(一九五二―二〇二三年)=音楽家。一九八八年『ラスト・エンペラー』にてアカデミー賞作曲賞を受賞。★ふくおか・しんいち=生物学者・作家。著書に『生物と無生物のあいだ』など。一九五九年生。