著者の誠実さが垣間見える記述 可能涼介 / 批評家・精神保健福祉士・公認心理師 週刊読書人2023年5月19日号 社会のストレスとこころ パーソナリティ障害と集団ダイナミクス 著 者:手塚千惠子 出版社:木立の文庫 ISBN13:978-4-909862-27-3 私(可能)は、本紙(読書人)上で、十何年かにわたり、精神・心理療法に関する書評を、二十冊分ほど書いてきた。本書『社会のストレスとこころ』を読んで、私が本紙の書評で一冊目に選んだ本が、岡田尊司『誇大自己症候群』だったことを思い出した。現代人の心の病の根底には自己愛の障害がある、という観点から書かれたものだった。 この『社会のストレスとこころ』も、主に自己愛性パーソナリティ障害を採り上げることによって、心の病の在りように迫った書物である。自己愛を軸に据えることによって、精神・心理という、いまだによくわからないものについて考える時に、見通しがよくなることは、確かであろう。 この本は、臨床心理士である著者の初の単著であるようなので、まずは、まえがき・プロローグやエピローグ・あとがきあたりをざっと読むことを勧めたい。著者の、おそらくは誠実であろう人柄や、フロイトの創始した精神分析を深く学んだであろうことが、よく伝わってくるものとなっている。 本書のまえがき・プロローグのあたりで著者は、例えば、ロシアによるウクライナ侵攻について、プーチン大統領は「感情」優位な状態にあって、思考・認知・意志などが劣勢となり、心的機能のバランスが崩れていると分析している。また、コロナ禍のなかで一時期見られた、医療関係者などをスケープゴートとした人々の心理についても分析している。 そのあたりを読んでみて、著者の考えに納得できると感じれば、まずは、「集団のダイナミクス」について論じた二つの章、その後で、「精神分析的心理療法の実際」について書かれた四つの章、その両者を読み進めれば、よいだろう。特に読み応えがあるのは、治療例が四つ載っている後者である。著者は、そこに挙げられた臨床例がすべて、「最早期に固着あるいは退行している状態の人たち」の治療だったと述べている。それは、自己愛性の障害を抱えた人たちのことでもある。 治療例からは、「発達過程早期に強い『欲求不満』をもったために膨大な量の『破壊エネルギー』が潜在化」した人々が、治療者から「自己愛的な欲求不満を解釈される」という、「傷に塩をすりこまれるような体験」によって、「自己愛状態から脱却する」好機を得るかもしれないといった消息が、抽出される。が、「日本文化と集団力動」をめぐる考察を通過した上で、治療を中断して去って行った人々について、分析を試み、理解しようとすることも、著者は忘れてはいない。 本書の終章では、著者が翻訳者の一人となっている或る本を主に使い、この本で扱ってきた治療例について、考え直している。そして、最後に、欧米と日本の文化の違いについての土居健郎的な思考を経て、二〇二一年に大阪で起こった、心療内科クリニック放火事件について、考えを巡らせている。それは、本書を読み進めてきた者には、腑に落ちる見解となっている。 ところで、精神・心理をめぐる書物に関しては、そこで述べられる理論よりも、ケース(症例)などの具体的な記述の方が、再読や再々読に耐え得ることが多いと思われる。が、読後に記憶にのこるのは、記述とその対象ばかりではない。例えば、フロイトの著作は、その理論や採り上げられた症例(それらも十分に、憶えておくに値するのだが)よりも、自らを文章(文体)を使ってケース(事例)として提示している姿(「この人を見よ」という言葉を思い出す)によって、時代を超えて読み継がれているのではないだろうか。 自己愛は、そこでは克服されている。(かのう・りょうすけ=批評家・精神保健福祉士・公認心理師) ★てづか・ちえこ=臨床心理士・日本精神分析学会認定心理療法士。大阪市立大学家政学部児童心理学科を卒業後、計四七年間精神疾患に対する臨床心理業務に従事した。現在は大阪にて「心理室森ノ宮」を開設。共訳に『第四の耳で聴く』『精神分析 考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること』など。一九四四年生。