どのようにしてわたしたちは会話をしているのか 稲葉渉太 / 京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員・社会学 週刊読書人2023年6月2日号 会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか 著 者:ニック・エンフィールド 出版社:文藝春秋 ISBN13:978-4-16-391679-8 表紙には「え?」、裏表紙には「ん?」の文字が大きくプリントされ、どうにも目立つ書影をした本書のタイトルは『会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか』である。本書のサブタイトルにある問いかけにあなたは答えられるだろうか。学校教育では「書きことば」を中心に、その文法に関する知識や文章の読解について学ぶ。おそらく、「話しことば」についてあなたは学んでこなかったのではないだろうか。 たしかに、わたしたちは学ぶまでもなく日常会話において「え?」や「ん?」を使いこなせている。だが、たとえば人から日常会話において「え?」をどのように用いているのか、あなたが尋ねられたとき、それこそ思わず「え?」と聞き返してしまうのではないだろうか。日常会話の中に散りばめられた、学ぶまでもないとされる言葉たちや、言葉ですらないような間隔、その役割について日頃から意識する人はおそらくいない。むしろ、そうしたものたちの役割をいちいち考えていては、途端に会話の流れから取り残されてしまうはずだ。わずかなズレも見過ごさないほどの精巧さで、人々によって会話は日々組み立てられている。本書は、学校教育でも、日常会話においても許されずにいること、すなわち、わたしたちが日常的に相手と共に組み立てている会話の前で立ち止まり、その精巧さについて素直に驚く機会を提供している。 会話の精巧さに注意を促すために著者は「会話機械」という概念を用いる。著者の言う「会話機械」とは、会話を作り上げるために用いられる人々の能力を指し、それらは時間などの会話において人々に課される制約に依存して機能する。本書を通して読者は、人々が互いに協力し合いながら、状況に応じて会話を組み立てていく会話機械の機能を細かく観察することになる。また、会話機械の機能を吟味するために、本書では適宜、会話分析という分野の知見を参照する。たとえば、質問の後にはその応答が規範的に期待されるように、会話においてわたしたちが利用している行為間の順番的な関係性を表す「隣接ペア」や、いかにしてわたしたちが互いに順番を取り合いながら会話を進めているのか、その秩序だった交代のやり方を表現した「順番交代規則」など。著者自身の平易なことばと訳者の努力によって、難解な専門的知見が日常的なやりとりから乖離しない自然なかたちで参照されており、会話機械がどのように機能し、会話を組み立てているのかが読者に伝わるよう、丁寧に構成されている。 著者N・J・エンフィールドは、種としての人類の能力、とりわけコミュニケーション能力に関心を寄せている。本書は、自然と読者をも著者の関心へと巻き込んでいく。著者は、自身の研究者としての経歴から引き出される広範で学際的な知見を遺憾なく発揮する。言語学をはじめに心理学、社会学など多様な学問分野の知見を横断的に参照し、また霊長類研究や著者がフィールドワークをしていたラオスのラオ語を含む多言語についての知見を援用しながら、考えるまでもなく、その場面に応じて互いに協力し会話を組み立てることができる人類の能力に、本書全体で驚嘆して見せている。 ところで、本書はサブタイトルで提示した「あなたはなぜ『え?』と言ってしまうのか」という問いには答えてくれないのだが、この点に引っかかってしまう読者はすでに本書に魅了されている。というのも、本書で検討される会話は主に英語でなされたものであり、「え?」に似たような言葉が分析されてはいるものの、「え?」については分析されていない。いかに会話が精巧に組み立てられているのかを著者とともに見てきた読者はきっと満足できないだろう。その意味で日本語のサブタイトルもまた著者の関心へと読者を誘う装置として巧妙に働いている。なぜなら、本書を読了後も、なぜ「え?」を言ってしまうのかに引っかかってしまう読者は、すでに分析を始めてしまっているのだから。 最後に、本書は翻訳の専門家が訳したことで、内容が咀嚼され、一般書として秀でて平易に仕上がっている。他方、訳者は会話分析の専門家ではないため、会話分析の専門的な知見について、たとえば「選好」に関する箇所などでは、誤解が生じている。会話分析には日本語で読める明瞭な入門書が揃っており、また著者の専門的な著作に関しては会話分析の専門家による優れた邦訳があるため、専門的な知見や著者自身の研究に関心を持った方は併せて参照されたい。(夏目大訳)(いなば・しょうた=京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員・社会学)★ニック・エンフィールド=シドニー大学教授・言語学。著書に『やりとりの言語学』など。一九六六年生。