「雑種」が巻き込む生き生きとした音楽 近藤浩平 / 作曲家 週刊読書人2023年6月2日号 ヴィラ=ロボス ブラジルの大地に歌わせるために 著 者:木許裕介 出版社:春秋社 ISBN13:978-4-393-93228-5 海外の文学は翻訳の有無により日本国内での認知に偏りがでる。美術でも展覧会の有無で偏りがある。音楽の場合も国内で演奏する人がいるかどうかで聴衆の耳に届く情報はバイアスがかかり、日本から見る音楽の世界地図はかなり偏っている。 二〇世紀を代表するブラジルの作曲家、ヴィラ=ロボスの音楽は、ギターやチェロなどのごく一部の曲以外は、日本ではまだ接する機会は少ない。いわば、ベートーヴェンが「月光」や「エリーゼのために」など数曲だけで知られていて交響曲も協奏曲も聴かれていないくらいの状態にある。 この本は、そうしたヴィラ=ロボスの音楽の全体像、世界の音楽地図の中での存在意義、関連性を、視野の広いバランス感覚のとれた視点で紹介している。しかも、その膨大な個々の作品にいてその音楽自体を聴いて魅力と内容と背景を知っている人しか書けない実感をこめて紹介し、アクセスの手がかりを提供する画期的な情報量がある。この本によりヴィラ=ロボスの音楽が広く演奏され聴かれることになれば、彼の音楽が持つ、クラシック~現代音楽の価値観、世界観を変えるような影響力が日本の音楽界に到達する重要な出発点になるかと思う。 ヴィラ=ロボスと周りの人達は、自分達自身の文化を示す音楽を創り出すことを考え、音楽史上の役割や社会的な役割を意識して行動する。ブラジルの作曲家として、どんな音楽を創って世界に乗り出していくべきかを考えて行動する。この本では事実の積み重ねでその姿が生き生きと描かれる。優秀な作曲家として認められたいという個人的野心を越えたところに彼は目標を設定する。 「純度」の高い「本物のヨーロッパのクラシック音楽」を日本人も演奏できるのだということを本場で証明したい。ヨーロッパの古典名曲の本場の演奏を到達すべき至高の真理として学び正統的な継承者として承認されたいという求道的な目標を日本のクラシック音楽家たちの多くが追ってきた。ところが、ヴィラ=ロボスと周りの人達のクラシック音楽への向き合い方は異なる。ショパンやバッハやストラヴィンスキーの成果も自分達の音楽を作るために吸収して(飲み込んで)、「雑種」としての自分達の音楽を産みだして世界の人々に聴かせようと彼らは考える。その目標は作曲家が楽譜を書くだけでは達成できない。周りの音楽家達、ルビンシュタインなど大演奏家も巻き込み、街の人達を巻き込み、政治家を口説いて国の文化政策までその目標に巻き込む。多くの人達がヴィラ=ロボスとともに凄い勢いで進む。ヴィラ=ロボスが若い頃からその作品の演奏の場をつくる人達がたくさん現れる。膨大な作品量は生前から膨大な初演、再演回数があったということを示している。彼が現代日本に生きていて、これだけの数の作品を発表しようとすれば、演奏家達はどれほどの頻度で自国の新作をプログラムに組まなければならないだろう。 クラシック音楽の高度な分析と構築という思考は戦後の現代音楽で極限に到達し、分析しても価値が説明しにくい音楽は知的で高度ではないと見られるヒエラルキーがあった。しかし、ヴィラ=ロボスはあえて分析できないと言ってみせる。民族的なリズムやコミュニティの特徴ある節回しの意味は分析では見えないということだろうか。 二一世紀、世界各地から作曲家が登場し「クラシックの演奏会」でも同時代の音楽が日常となる。「ヨーロッパの伝統音楽」というニュアンスをもつ「クラシック音楽」という言葉は違和感が生まれ、「アート音楽」など何らかより適切な言葉が使われるべき段階に入ってくる。「クラシック音楽」というコミュニティに閉ざされず、精妙なリズムアンサンブルとインタープレイで豊穣な世界を持つブラジルのポピュラー音楽と相互に浸透しあった「雑種」であるヴィラ=ロボスの音楽の重要さに多くの人が気づくことは音楽の世界が大きく変わる起点になると思う。(こんどう・こうへい=作曲家)★きもと・ゆうすけ=指揮者。松方千之氏に指揮法を師事。東南アジアで数々の演奏会を指揮し、イタリアを中心に欧州で研鑽を積む。二〇一八年にBMW国際指揮コンクールにて優勝。現在エル・システマジャパン音楽監督、日本ヴィラ=ロボス協会会長。文筆では立花隆に師事。共著に『午前四時のブルー』など。一九八七年生。