自分は「性同一性」をはっきり持っているか? 高島鈴 / ライター・アナーカフェミニスト 週刊読書人2023年6月9日号 埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡 著 者:五月あかり・周司あきら 出版社:明石書店 ISBN13:978-4-7503-5546-7 本書は生まれた時に「男性」を割り振られ、のちに「女性」に見える姿にトランジションしたノンバイナリーである五月あかりさんと、生まれたときに「女性」を割り振られ、現在は「男性」とされる立場で暮らす周司あきらさんによる、極めて丁寧な往復書簡である。いや、極めて丁寧な、という文句ではまだ物足りないほどだろう。正直私は今、筆を執る手が震えている。この本の中で行われている議論は、二人がお互いの存在を最大限に祝福しながら行う鍔迫り合いのようなものだ。特別な親密さの中で真剣に切り結ばれていく言葉の交差に、第三者である私がどうやって口を出せるのか、今も必死に考えながら自分なりの慎重さで言葉を編んでいる。しかし同時に、私にも何か言わせてほしい、とも思っている。私も自分の性のありさまについて、それが得体の知れないものであると気づく。そしてその尻尾をどこかで摑んだような気がして、性を語りたいとどこかで考えている。 おそらく多くの読者が、私と似た葛藤に襲われるだろう。一方ではあかりさんとあきらさんの間に交わされる議論の鋭敏さと緻密さに圧倒され、「言葉を失う」。一方では同じものに突き動かされるようにして、「言葉を得る」。つまり読者は、己の持っている言葉を新しく生まれ変わらせることになるのだ。あかりさんとあきらさん、二人のトランスパーソンを発信地としたトランス/シスをめぐる先鋭な議論は、ひとりの「非当事者」も作らない巨大な渦となって、読者をどっぷりと飲み込んでゆく。 まず驚かされるのは、本書が従来のトランスジェンダー/シスジェンダー観念を解体してしまうところだ。従来のトランスとは、「割り当てられた性別と異なる『性同一性』を有する人」(94頁)、として解釈される場合が多い。だが二人は、「性同一性」のあるトランス/シスがいる一方で、「性同一性」のないトランス/シスがいる、という点を指摘するのである。ここでページを繰る手が止まる――果たしてこれを読んでいる自分には、「性同一性」があっただろうか? そう考えているとき、すでに既存のトランスジェンダー/シスジェンダー観念は解体されている。残るのはただ、自分が何者なのか悩む一人の人間なのだ。 対話はさらに、生身の緊張感を伴って進んでいく。Aセクシュアルのあかりさんとパンセクシュアルでポリアモリーのあきらさん、この全く違うように見える立場が実は似通っていること。二人がやがて触れ合い、ひとつの距離感を作りながら同居を選んだこと。「好き」とは何なのか。その過程。 全てを読み終えた今、私は自分自身の存在をごく奇妙に、しかし爽やかな気持ちで迎えている。私はまた一つ、自分のことがわからなくなった。本書には「性同一性」を持つ人/持たない人がいることを前提としたジェンダーのフローチャートが付随しているが、私は「性同一性ははっきり持っている?」という質問の時点で線を追う指が止まってしまった。たぶん、持っていない。そこには動揺と納得があった。これまで手探りだった何かを摑み取る感じが、わずかにあった。 「好き」の話題でもそうだ。己を「鬼のモノガミー」と解釈していたかつての自分と、「もしかしたらポリアモリーかもしれない」と思っている今の自分の道の先が、少しばかり明るくなった。書評なのに自分の話をしてごめんなさい、でも、そうさせる力を持った本だし、その力をこれを読んでいるあなたにこそ浴びてもらいたいのだ。 ジェンダー/セクシュアリティについて、悩んだことがないと思っている人ほど、そして「自分にトランスの話は関係ない」と思っている人ほど、本書を手に取るべきである。確信していたはずの己の輪郭が溶ける体験を経てほしい。そして二人の人間の誠実な対話、相手に向けて綴られた言葉の持つ温かいエネルギーを、無二の自分の中へと招き入れてほしい。(たかしま・りん=ライター・アナーカフェミニスト)★さつき・あかり=都内のOL。いつの間にか生活が男性から女性になった人。★しゅうじ・あきら=主夫、作家。生活が女性から男性になった人。著書に『トランス男性による トランスジェンダー男性学』など。