政治の嵐吹き荒れるパリでのビルドゥングス 塩澤幸登 / 評論家・編集者 週刊読書人2023年6月16日号 モンパルナス1934 著 者:村井邦彦・吉田俊宏 出版社:blueprint ISBN13:978-4-909852-38-0 モンパルナスというのはパリ14区、リブ・ゴーシュ(セーヌ左岸)にある町の名称。モンパルナス通りとラスパイユ通りが交差する五叉路にはラ・クーポール、ラ・ロトンドなど一〇〇年以上続く(いまもある)著名なカフェがあり、カフェ文化発祥の地である。 一九三〇年代のヨーロッパは、ドイツではワイマール共和国が崩壊し、ヒトラーが総統になってナチズムの思想を背景に東ヨーロッパ侵略を開始し、ロシア(ソ連)では詩人のマヤコフスキーが自殺して、トロツキーが追放され、三四年にはスターリンによる大粛清が行われている。やがて戦争が始まる、異常にきな臭い時代だった。 もう一七〇年くらい前になるが、ボードレールは「パリは地獄だ。だけど、あそこに帰りたいんだ」と書き、ヘミングウェイが「パリで青春を過ごさなかった人は真の青春を過ごしたとは言えない」とまで言い切った、パリはそういう、特別な力を持った都市なのだ。 二〇年代のパリが〝失われた世代〟の文学者たち、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、J・ジョイスらの時代だったとすれば、三〇年代のパリは、文学的にはヘンリー・ミラーが『北回帰線』の生原稿を持って版元を探してウロウロしていた頃なのだが、主役はナチズムとコミュニズム、それとフランス的市民の自由、その三つが三つ巴で抗争をくりひろげていた政治の坩堝だった。本書は、その政治の嵐の吹き荒れる時代のパリに留学し、迷い込むようにモンパルナスに辿り着いた青年のビルドゥングスである。 それで書評である。 この本を手に取った最初の感想は、ついに村井さんが小説を書いたかというものだった。何年か前にお会いしたとき、「講談社の人に自伝を書けといわれているんです」と話されていた。それが前著のエッセイ集『村井邦彦のLA日記』にはその自伝の担当編集者が亡くなられて話が立ち消えた経緯が書かれていた。自伝というのはうっかりすると自慢話のラレツになりやすく、文中での自意識のコントロールが難しい。村井さんが自伝をやめてこの体裁の小説を選んだのは正しかったと思う。 版元はこの本をヒストリカル・フィクションと言っている。この作品は司馬遼太郎が明治維新を取り上げた歴史小説に似ていて、伝聞でしか残っていない情報の時代背景を徹底的に精査して、許容範囲で脚色するという手法によっている。主人公は戦後、飯倉片町にイタリア・レストランのキャンティ(ここのプリンは日本一うまい)を開業する川添浩史(旧名紫郎)、二十一歳。柔道の達人だ。 ネタバラシになるが大概の筋書きはこうである。 マルセイユに到着した紫郎は、いつも誰かに監視されながらカンヌからパリへ。旅の途中で知り合った女性に淡い恋心を抱くが、彼女はスペイン内乱で死んでしまう。パリでは同じ身分の留学生たちと親交を深めるかたわら、アメリカから来た金持ちの息子やドイツから来たファシストたちと対立し、大げんかも。その窮地を救ってくれたのは怪しい尾行者かと思っていた、母親がかげから見守ってあげてと依頼した満鉄のパリ支局の人たちだった。やがてピアニストの原智恵子と恋愛し結婚。そして、彼は日本とフランスの文化交流を生涯の仕事にしようと思い立ち、満鉄の支援を受けて映画の輸出入のための会社を設立。風雲は急を告げ、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告、みんな日本に引き上げざるを得なくなる。戦時下では軍部に弾圧されながら、平和と戦争の終結を訴え続ける。そして終戦後、日本舞踊をヨーロッパに紹介する新しい挑戦を始める。 同じ身分の留学生というのは岡本太郎や坂倉準三、井上清一ら。それにジャン・コクトー、ロバート・キャパなど実在した人物が登場。これにまぜて何人かの虚構の人間を登場させ、前後にYMOの世界的成功の挿話を置いて物語世界を構築している。 ヨーロッパの文物をどう受け入れるかは夏目漱石以来の日本の知識人の宿命的な課題である。日本国内にはむき出しでフランス文化に接することができる場所は案外少ない。 村井さんの場合、高等学校まで暁星学園に通っている。この学校はフランス人教師が何人もいて日常の挨拶はボンジュール、学内の行事では『君が代』の他にフランス国家の『ラ・マルセイエーズ』を歌うような学校で、フランスは彼がいずれ行くべき国だった。作曲家になったあと、頻繁にパリを訪ねるようになり、そこから世界へとチャンネルを広げていった。この[世界性]が後年のYMOの世界的成功をもたらす大きな要因となる。 ヨーロッパとの出会いは逆説を書くと、日本の独自性をどう考えるかということでもある。このことについて、村井さんはこの本の中でも何箇所か、むき出しで自分の思想を書いている。たとえば若き日のJ・P・サルトル(一一〇頁)やポール・ヴァレリーとの出会い(一四六頁)の部分など。 人間の真理=基本はいつも変わらない。でも、いつも新しい、これまで世の中になかったものを作りつづけたい、たぶん村井さんはそう思って仕事しつづけているのではないか。(しおざわ・ゆきと=評論家・編集者)★むらい・くにひこ=作曲家・編曲家・プロデューサー。音楽出版社アルファミュージック、レコード会社アルファレコードを設立。赤い鳥、荒井由実、吉田美奈子、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)などを世に送り出した。代表作に「翼をください」「虹と雪のバラード」など。一九四五年生。★よしだ・としひろ=日本経済新聞社編集委員。日本経済新聞社奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経る。長年にわたってポピュラー音楽を中心に文化、芸術全般を取材している。一九六三年生。