「民主的人倫」の可能性を問う巨大な作業 岩崎稔 / 大和大学政治経済学部教授・哲学/政治思想 週刊読書人2023年6月16日号 自由の権利 民主的人倫の要綱 著 者:アクセル・ホネット 出版社:法政大学出版局 ISBN13:978-4-588-01153-5 もしもヘーゲルが今の時代に『法の哲学』を書くとしたら、それはどんな一冊になるだろうか。――ホネットの二〇一一年の大著はまさしくそうした「きわめて大きな身振り」の仕事だった。かれは、今日の規範的な議論の主流が、顕著に形式主義的なアプローチによって領導されていることを、それでは足りないと考えている。これは、カント的な意味での「道徳」とヘーゲル的な意味での「人倫」との対比として考えれば分かりやすい。 自由や正義を個人の徹底した自律性に基づいて考察し、そのうえに善き生の可能性の条件を考察する方向性は、ロールズやハーバーマスなどの多くの先端的な理論に体現されている。それに対してヘーゲルの人倫につながる系譜は、個人の自律に力点をおく倫理を、歴史的に存立している制度とそこに実体化されている規範性に埋め込んで、その現実の側から考えようとしてきた。そうした系譜にあたるものは、ハイデガーやガダマーから、さまざまなコミュニタリアニズムの企てまでが考えられるが、それらはともすると個人の自由の制約を容認する保守主義のスタンスに帰着する。それに対してホネットはラディカルに個の自由の可能性を擁護しつつ、それを討議的な意志形成を内包する制度の側から、「民主的人倫」の可能性として考えようとしている。すでにホネットは、代表作である『承認をめぐる闘争』(一九九〇年)のなかで、ヘーゲルがイェーナ時代に展開していた「相互承認」の概念を、よりいっそう洗練された条件のもとでの「承認圏域」の理論として構想し直していた。今回も、ヘーゲルの『法の哲学』の人倫論を、二〇〇年余の歴史と二一世紀のリアリティを踏まえたうえで、今日の人間的なネットワークのなかに置き入れて叙述し直してみせたのである。 そのため本書の立組みは、ヘーゲルが「抽象法―道徳性―人倫」という編制で展開した姿に似たものになる。ホネットも、「否定的自由」「反省的自由」「社会的自由」という自由に関する三つのモデルを析出したうえでだが、まさに法的自由から道徳的自由、そして社会的自由へと進む。またその社会的自由も、ヘーゲルでは「家族―市民社会―国家」という構成となっていたことに対応して、(家族だけでなく、友情や多様な性愛を含む)親密性の問題、経済的な市場関係や社会化された労働市場と消費の問題を経て、さらに「憲法パトリオティズム」や欧州連合のような国家と社会に関する数多くの問題のなかへとそのつど展開されていく。 もちろん、このようにヘーゲルの革袋のなかに新しい酒を入れることに、革袋そのものの刷新がどこまで伴いうるのかということも、ホネットの問題意識である。ホネットが自身の叙述を「規範的再構成」の作業と名づけているのは、歴史的なさまざまな事例をそのまま規範的な主張を裏付ける根拠にすることなどできないからである。この方法によって、歴史的事態のなかに可能性として懐胎していたものを救出し、またそこでの成功と失敗をひとつひとつ再論し、個々人の自由が関係性のネットワークのなかでどのように「民主的公論」を成り立たせ得るのかを明らかにしていくことになる。 しかし、ヘーゲルの時代とは違って、現代の諸相は途方もなく複雑で葛藤とアイロニーに満ちている。ホネットの叙述は、設定したその課題のために、そのひとつひとつの込み入った経緯と難点を列挙し、すべての問題を位置づけなおすという途方もない試みを必要とする。そのために本書は、言うなれば制度と自由に関するレキシコンとでもいった相貌を帯びざるをえない。それとともに、個々の叙述の積み重ねはいくらか散漫で冗長になったりすることも避けられない。おそらくそれは、課題との関係で誰がやっても不可避なのだろう。 翻訳チームはこれ以上望めない強力な取り合わせである。ホネットの格闘につねに共感的に寄り添ってきた日暮雅夫と水上英徳、フランクフルト学派研究の宮本真也、そして今日のもっとも信頼できるヘーゲル研究者のひとりである大河内泰樹が組んで、浩瀚な一書を日本語圏での参照可能なテキストにしている。困難な作業を最後まで成し遂げた労苦には深く敬意を表したい。 たしかに、この短い書評では扱いきれない実に多くの争点に関わりを持つ大著である。しかし、読み進めながら、近年のドイツでの議論でよく投げかけられるEntpro―vinzialisierungという言葉がふと浮かぶこともあった。直訳すれば「脱―田舎化」とでもいうような、いかにも意地悪い言い方になってしまうが、それが欠けているように感じるところがあるのだ。ホネットには、近代制度としての民主主義をあまねく論じながら、なぜかそこに民主主義の裏面としてのコロニアリズムの歴史と動態を組み入れて論じようとする姿勢がない。もちろん国民国家の存立におけるマイノリティや移民の問題は、受け入れ国側の問題として論じられているが、その部分の議論もヨーロッパの文脈で完結している。近現代像との真剣で内在的な格闘でありながら、「地方としてのヨーロッパ」の視野がそのまま普遍的な位置価を要求してしまってはいないか。(水上英徳・大河内泰樹・宮本真也・日暮雅夫訳)(いわさき・みのる=大和大学政治経済学部教授・哲学/政治思想)★アクセル・ホネット=コロンビア大学教授・哲学。フランクフルト学派第三世代の代表的存在。ハーバーマスに師事し、一九八三年、ベルリン自由大学にて博士号(哲学)を取得。著書に『社会主義の理念』『理性の病』『私たちのなかの私』『見えないこと』『承認をめぐる闘争』『正義の他者』『物象化』『自由であることの苦しみ』『正義の他者』『承認をめぐる他者』『権力の批判』など。一九四九年生。