ジャンルのコードを壊し続けてきた作家初の歴史ミステリ 若林踏 / 書評家 週刊読書人2023年6月23日号 話を戻そう 著 者:竹本健治 出版社:光文社 ISBN13:978-4-334-91524-7 竹本健治が歴史小説を書く。 こう聞くだけでも、心がざわつくミステリファンは多いはずだ。探偵小説の構造を破壊したデビュー作『匣の中の失楽』をはじめ、実在の推理作家たちが登場し大変な目に遭うメタミステリ〈ウロボロス〉シリーズなど、竹本は奇書としか言い様のない小説を書き続け、ジャンルのコードをぶっ壊し続けてきた作家である。その竹本健治が果たして正攻法の歴史小説を書くことがあるだろうか。いや、無い。 というわけで著者初の歴史ミステリである『話を戻そう』である。本作は幕末の佐賀藩を舞台にした連作短編集の形式を取っている。竹本は二〇一四年から佐賀県武雄市に移住しており地元でミステリに関する講演会に参加するなど、地域に根付いた活動を現在は行っている。ゆかりのある土地が積み重ねてきた歴史を、自分なりの小説作法で文字に残そうという思いからこの作品が生まれたのだろう。 各編に登場するのは岩次郎という少年である。岩次郎は江戸時代後期から明治にかけて活躍した発明家で、〝からくり儀右衛門〟の異名を取った田中久重の孫だ。田中久重は佐賀藩の精煉方に着任し、蒸気機関車や蒸気船の発明、反射炉の設計や大砲の製造に関わる事で同藩の近代化に貢献した人物である。そうした歴史に名を残す発明家の孫が藩内で起きる奇怪な事件に遭遇する、というのが各編の基本構成になっている。 これは歴史上の実在人物を探偵役に据えた連作謎解き短編集なのか、とお思いだろうか。ちょっと違うのだ。例えば一編目の「商人屋敷の怪」では、藩内の商人屋敷で夜な夜な奇妙な物音がする怪異が描かれ、知恵者である岩次郎の名が挙がる場面がある。さあ、ここで名探偵の謎解きが、と思ったところに作者は岩次郎の祖父、田中久重についての説明を始めるのだ。その説明なのだが、これが七ページ程に渡って展開するのである。〝からくり義右衛門〟にまつわるありったけの蘊蓄が披露された後、作者はこう綴る。 「話を戻そう。」 つまり本作は歴史探偵小説の体裁を取りつつ、その背景となる歴史や土地の知識が書かれていく注釈小説なのだ。面白いのは書かれる知識が作中の物語に直接関わるものに限らない点である。二編目の「斬り落とされた首」では、蘭学者の神田孝平が翻訳した『和蘭美政録』についての話題が出るのだが、ここで展開するのは何故かミステリ小説の歴史なのだ。竹本は『和蘭美政録』を日本最初の翻訳ミステリであると記した上で、その語りが日本を飛び越えてエドガー・アラン・ポー以前の〝世界最古のミステリ〟をひもとく談義へと話がどんどん広がっていく。まさか幕末の佐賀を描いた小説でポーの名前が出てくるとは誰が思うだろうか。また、「嘉瀬川人斬り事件」では岩次郎が出くわした事件を紹介する前に、佐賀の町並みについて延々と語られる。おそらく近年書かれた小説の中でも、これほど特定の土地におけるクリークの歴史を熱く綴った小説はないだろう。読了後、佐賀の地形にやたらと詳しくなっていた自分がいる事に気が付いた。 ミステリとしての評価に話を戻そう。では、そうした脱線の部分だけを楽しむ小説なのか、と言われると、実はそれも違う。収録作の中には独創的なアイディアが盛り込まれた、本格謎解きミステリとして完成度の高いものも含まれているのだ。「拾参号牢の問題」がその代表格である。これは維新の十傑にも列せられる江藤新平を主役にした脱獄ミステリであり、タイトルの通りジャック・フットレルの有名短編へのオマージュを捧げた一編になっている。「時計仕掛けの首縊りの蔵」におけるトリックは、奇抜でありつつも膝を打つような説得力のあるものが書かれている。ミステリファンにとっては謎解きが楽しめて、歴史小説ファンにとっては盛り込まれた情報の密度に圧倒される。そんなキメラのような小説を地元を題材にして書いてしまう竹本健治は、やっぱり変な作家だ。(わかばやし・ふみ=書評家)★たけもと・けんじ=作家。著書に『匣の中の失楽』『涙香迷宮』(ミステリ大賞小説部門)、「ゲーム三部作」、「ウロボロス」シリーズなど。一九五四年生。