二〇世紀前半の銀幕を駆け抜けた「女優」 児玉美月 / 映画執筆家 週刊読書人2023年6月23日号 ハリウッドのルル 著 者:ルイズ・ブルックス 出版社:国書刊行会 ISBN13:978-4-336-07478-2 「筆の立つ映画女優」なる存在への驚きを綴る一文から開始される本書『ハリウッドのルル』は、ちょうど映画史的にはサイレントからトーキーへの移行期にあたる一九二五年から一九三八年のわずかな季節を銀幕で生きたルイーズ・ブルックスの自伝的エッセイである。その「驚き」はむろん女性を知的存在と見做さない古めかしい偏見とも密やかに共犯関係を結んでいるわけだが、この本のひとつの魅力がきわめて美しい女性が流麗な文章を編んでいるのだという倒錯的で疚しいフェティッシュにあることを一体誰が否定できよう。 ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督によるドイツ表現主義の代表作『パンドラの箱』(一九二九年)の「ルル」役でよく知られるブルックスは、男性を破滅へと導く「ファム・ファタル」(宿命の女)としてもまた映画史に君臨した。黒髪のボブカットとその妖艶なまなざしは、現代においても尚強烈な印象を残す。ジャン=リュック・ゴダール監督による白黒映画『女と男のいる舗道』(一九六二年)のアンナ・カリーナ演じる娼婦ナナはブルックスをその身で再演し、彼女はときに姿を変えて銀幕に息づく。かつて作家の大岡昇平は一九八四年に上梓された『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(中央公論社)において、ブルックスを「破壊的な観察者であり、直截で正確で躍動的な文章の書き手」(四二頁)と讃えた。 本書の第一章「カンザスからニューヨークへ」では、ブルックスのその後の人格がいかに形成されたかが窺える生い立ちが語られてゆく。実直な弁護士の父親と才能溢れるピアニストの母親のもとに生まれ、もともとプロのダンサーでもあったブルックスは入学した音楽学校の教師にダンス教室を追放されている。曰く、「わがままで、癇癪持ちで、やたら人を見下す」のが理由であった。ブルックスは母親から投げかけられた「もっとまわりから好かれるようにしなさい」という言葉に逆行するようにして、「蛇蝎のごとく嫌われる人間」(一七頁)へとなっていった。 そうして憎まれ役を買うブルックスだったが、第三章「マリオン・デイヴィスの姪」ではときに歯に衣着せぬ批判も厭わない彼女が、友人ペピ・レデラーを有り余るほどの愛情を持って描き出してゆく。オーソン・ウェルズ監督による傑作『市民ケーン』(一九四一年)でモデルにもされ「新聞王」と呼ばれたウィリアム・ランドルフ・ハーストを愛人に持つマリオン・デイヴィスの姪であったレデラーは、彼らによって厄介払いされている。ブルックスはデイヴィスの伝記の索引でレデラーの名前に邂逅した瞬間、何故彼女を書こうとしなかったのかと自問した。「ペピは名を成した人間じゃなかったからよ。ハリウッドの失敗者だったからよ」(七一頁)と彼女は自らを嘲るように答えた。レデラーはあるとき謎の望まぬ妊娠に見舞われ、中絶手術を余儀なくされたという。レデラーが自死によってこの世を去った後、ブルックスはレデラーを犯した男を偶然知ることとなる。ブルックスにとってレデラーについて書くことそれ自体が、彼女の無念を晴らすある種の復讐たりうるのだと思わされる切迫性がこの章にはある。 本書ではまた、『パンドラの箱』を巡った驚くべき逸話も披瀝される。映画史上初めてといわれるレズビアンの登場人物ゲシュヴィッツ伯爵夫人を演じたアリス・ロベールは、パプストから女性同士の親密な演技を求められて激昂したという。パプストの苦肉の策はロベールがブルックスを通り越してカメラ脇の彼にまなざしを送り、それに応えるというものだった。つまり映画がほとんど初めて捉えたレズビアンのまなざしは、女性に対してではなく男性に対して向けられていたに過ぎなかった。一方、女性との肉体関係も飄々と語るブルックスは同性愛の芝居をまったく物怖じせずにこなした。 『ハリウッドのルル』の初版は一九八二年に刊行され、およそ四〇年あまりの時間を経てこうして邦訳が届けられた。二〇一七年以降、ハリウッドで権威を振るうプロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインへの性暴力及びハラスメントの告発に端を発した「#MeToo運動」が活況を呈した。#MeTooを経た現代に出合い直す『ハリウッドのルル』は、まだまだ女性の地位と権利が確立されていないなかで映画界に生きたひとりの女優が、ときに負の遺産をも炙り出しながら、その冷徹で知性を携えた筆致によってハリウッドにおける一時代の歴史を立ち上げてゆく様は、映画界が抱える未だ未解決の多くの問題を逆照射するだろう。(宮本高晴訳)(こだま・みづき=映画執筆家)★ルイズ・ブルックス(一九〇六―一九八五)=俳優。『或る乞食の話』でデビュー。代表的な出演作に『パンドラの箱』『淪落の女の日』『ミス・ヨーロッパ』など。一九三八年に引退。