「虎」の異名をもつ政治家の晩年に放つ光とは? 藤林道夫 / 仏文学者 週刊読書人2023年6月23日号 クレマンソー 著 者:ミシェル・ヴィノック 出版社:作品社 ISBN13:978-4-86182-962-8 共和国フランスの原点といえば一七八九年に始まる大革命である。しかし、その後のフランスの歩みは迷走といっていいだろう。共和政から帝政、王政復古、立憲君主政、再び共和政、帝政と引き継がれ、約一〇〇年後に第三共和政が成立する。 ただ、この共和政はそれまでとは異なる。民衆革命の成果として生まれたものではない。一八七〇年の普仏戦争敗北とそれを受け入れない民衆の蜂起「パリ・コミューン」、鎮圧しようとする政府との内戦、そうしたどさくさの果てに生じた右派から左派まで各勢力のいわば妥協の産物だった。内部分裂した王党派、一部王党派と結びつく「日和見派」(オポルチュニスト)と呼ばれる共和右派の存在が大きい。ジョルジュ・クレマンソーはこうした状況下、共和左派「急進派」(ラディコー)を率いた政治家、ジャーナリストである。 王党派の地盤であるヴァンデ地方の熱烈な共和主義者の家庭で一八四一年に生まれた彼は、一八六一年、医学を修めるべくパリに出る。翌年には過激な共和派メンバーとして逮捕された。その後、失恋の痛手を癒すかのようにアメリカへ渡ったクレマンソーがフランスに戻るのは一八七〇年。祖国の敗北は屈辱だったが、帝政崩壊に希望をみた彼は、共和派の国防政府のもとでパリ18区の区長となる。パリ・コミューンではコミューン派と臨時政府の調停を試みるも失敗。この経験が彼の政治家としての出発点となる。 本書の登場人物は多彩である。ヴィクトル・ユゴー、オーギュスト・ブランキ、ルイーズ・ミシェルに始まり、エミール・ゾラ、ジュール・フェリー、モーリス・バレス、シャルル・ペギー、レイモン・ポワンカレ、さらに長年の友人だったクロード・モネ。中でも印象深いのは、同じく雄弁で鳴らしたライバル、ジャン・ジョレスだろう。「明快な説明でストレートに攻撃する」クレマンソーに対して、ジョレスの演説は「豊かなイメージにあふれ、目を見張らせる渦巻のようだった」という。 ふたりには死刑廃止など、共通する主張もあった。とりわけユダヤ人将校のスパイ容疑をめぐる「ドレフュス事件」では、ドレフュス派として共に戦うことになる。『ロロール』紙に載ったゾラの「私は弾劾する!」は、クレマンソーが依頼しタイトルをつけたものである。そしてドレフュス派の勝利で終わったこの冤罪事件以降、王党派は衰退し、共和派においても急進派が主導権を握ることになった。一九〇六年、彼は首相兼内相に上りつめ、一九〇九年まで務める。しかし、次第にジョレスとは疎遠になっていく。ジョレスが社会主義に傾倒していったためである。 クレマンソーは日和見派の植民地侵攻に反対の立場を貫いていた。一部資本家の利益に資するものと考えたのだろう。その意味で彼の急進派はブルジョワ勢力とはっきり対立している。しかし彼は、常に所有権、私有財産を擁護した。国家による統制を伴う集産制度に反対であり、その点で社会主義者とは相容れなかった。当然階級闘争といった視点も見られない。匿名性の平等より、あくまで個人の自由を重視する。これが彼の共和主義だったのだ。 ふたりの対立が最も鮮明になるのは、兵役期間延長問題である。戦争が不可避になりつつある状況下で、クレマンソーは国防のため兵士を増やそうとした。一方ジョレスは、社会主義者の連帯によって和平を実現しようと、延長どころか期間短縮を提言する。その後に起こるジョレスの悲劇については『チボー家の人々』の中に見事に描かれている。ジョレス暗殺を知り、社会主義者たちも祖国のため戦線に赴く姿を見て、主人公ジャックは運命の操縦桿を握ったのである。 ジョレス亡きあと勃発した戦争はしばらくすると膠着状態に陥った。厭戦気分が広がり、勝ちも負けもない和平を望む声が大きくなっていく。しかし、一九一七年、七六歳のクレマンソーが首相兼陸相として再登場。幾度も決闘を経験してきた彼は戦うとなれば怯むことがない。彼にとって侵略者は打ち負かすものであり、安易な停戦などあり得なかった。こうして彼は「勝利おじさん」と称賛されることになる。 一般に、クレマンソーはパリ講和会議でドイツに対して巨額の賠償金を課した首謀者であり、それが結局第二次世界戦争の遠因となったと語られる。また、「警察のボス」として行った労働争議に対する厳しい弾圧を非難する向きもある。しかし本書によればことはそれほど単純ではなさそうだ。確かに「虎」の異名をもつ激しい人物だった。ただ、反カトリックではあっても「知への意志」として宗教を認めないわけではない。純粋にライック(政教分離論者)なのである。社会主義者ではないが、その理想を理解しないわけではない。彼にとって現実の宗教やイデオロギーは、無駄に新たな敵を作り出す装置のように見えていたのかもしれない。 さて、フランスにおいてクレマンソーはシャルル・ドゴールに比すべき英雄である。しかし、第一次と第二次、ふたつの戦争は大いに異なる。ドゴールは国外からレジスタンスを指導し、戦後、亡命政権、臨時政府を共和国の正統な後継者として認めさせることで、フランスを戦勝国入りさせてしまうという大手柄を立てた。クレマンソーはそうした狡猾さとは無縁である。ただひたすら戦ったのである。 情感を抑えた硬質な叙述の本書が、終盤に至っていくらか潤いを帯びてくる。老境のプラトニックな恋、モネに白内障の手術と睡蓮の連作続行を勧めるエピソード。驚くべき教養人、趣味人としてのクレマンソー。彼は友人西園寺公望を通じて日本美術を知り、浮世絵や、とりわけ数千に及ぶ香合のコレクターとなった。一九二九年、病をおして執筆を続けながらパリの自宅で息を引きとる。享年八八歳。遺体は故人の希望でヴァンデの父の墓近くに葬られた。ジュリアン・グラックの語る晩年の彼の姿が小粒の真珠のように光を放っていることも付け加えておこう。(大嶋厚訳)(ふじばやし・みちお=仏文学者) ★ミシェル・ヴィノック=歴史家。著書に『ナショナリズム・反ユダヤ主義・ファシズム』『知識人の時代』『ミッテラン』『フランスの肖像』『シャルル・ドゴール』など。一九三七年生。