人々の欲望、はかない感情もさかしらな策略も、上海の街にのまれゆく 川口則弘 / 文学賞研究家 週刊読書人2023年7月7日号 上海灯蛾 著 者:上田早夕里 出版社:双葉社 ISBN13:978-4-575-24602-5 街にはそれぞれ顔がある。政治、経済、交通、文化、いくつもの要素が積み重なって、個性的な表情ができていく。なかでも中国の上海は諸外国からの注目も熱く、日本人にとっても魅力的に映る街だった。国際的で活気があって、そして何より妖しげで……。とくに一九三〇年代から四〇年代、揺れ動く世界を背景に、狂乱を描く舞台としてもってこいなのが上海だ。何が起きても不思議ではない。いったいどんな景色が見られるのだろう。そんな読者の期待を本作は裏切らない。 上海租界の片隅で、一人の日本人が小さな雑貨屋を営んでいた。名を吾郷次郎という。内地の寒村に生まれ、暗澹たる少年期を過ごしたあと、成功を求めて海を渡ってきたのだ。コネもない。カネなんかあるはずもない。あるのは成り上がりたいという野心だけ。上海では青幇(チンパン)と呼ばれる中国人の秘密結社が実権を握っている。何も持たない一人の青年が渡り歩いていけるのか。度胸と機転が試される。 ある日、次郎の店に未知の日本人女性がやってくる。原田ユキヱと名乗った彼女は、良質な阿片と芥子の種を持っていて、取引先を探してほしいという。これはチャンスだ。次郎は食いつく。次郎にとって救世主となるこのユキヱ。何がすごいと言ってミステリアスぶりがえげつない。からだから香水のような匂いを発し、次郎と読者を幻惑する。何者なのか。得体が知れない。彼女の持ち込んだ阿片芥子を手に、次郎が裏の社会に足を踏み入れる展開とともに、ユキヱの存在感がもう一つの軸となっていく。血気盛んな男と、目の前にちらつく謎の女。冒険小説どまん中の構成だ。 ユキヱから預かった阿片を手に、次郎は青幇に属する楊直に会う。まもなく二人は義兄弟の契りを交わすが、楊直もまだまだ下っ端にすぎない。青幇の世界は層が厚く、下の者が儲けるには知恵と努力が必要だ。少しでも上に歯向かえば、命の保障もありはしない。ひりひりする日々が次郎のもとに訪れる。 麻薬。暴力。裏社会。と、これだけでは現代日本の新宿に似ていなくもないが、本作ではそこに巨大な思惑が投下される。日本の関東軍である。満州建国、上海事変と、関東軍の横暴ぶりは中国各地に波及したが、彼らは阿片にも目をつけた。とにかく麻薬は金になるからだ。利益とメンツをめぐって、中国に根を張る秘密結社と、悪の枢軸日本軍が火花を散らす。この対立が物語を燃やす火力を強めていく。 上海租界のダンスホールで次郎は、とある若者と知り合う。伊沢穣という苦学生だ。お金にゆとりを持ち始めた次郎は、彼への支援を約束する。のちに伊沢は満州・新京の建国大学に入り、さらには暁明学院大学へ進学するが、学校を出て再び上海に戻ってきた伊沢は、かつての恩人次郎と対峙する。軍部の絡んだその動向を説明程度で済ませずに、みっちり書き込んだところが本作の美点だろう。 次郎と伊沢。二人は育ちも境遇もまるで違う。しかし似ている点があるのがいい。ともに既成の日本社会からあぶれ、鬱屈した思いを抱えている。伊沢は父が日本人、母が亡命ロシア人。子供の頃から色眼鏡で見られ、それが彼の人格に大きな影を落としてきた。しがらみから解き放たれたい。自由になりたい。伊沢もひそかな野望を持っていたのだ。次郎と伊沢の姿は相似形をなし、両者が交錯することで悲壮感が増幅する。 人々の欲望が交じり合う。他人の尊厳をふみにじっても富と権力を得ようとする争いに果てはない。はかない感情もさかしらな策略も、すべて上海の街にのみ込まれていく。倫理とか善悪とか、そういう次元も超えている。戦時下の中国という舞台をあえて選び、混然とした筋立てを丁寧に紡いで、人間の強さ弱さを浮び上がらせる。作者の覚悟を感じないで読み終えることはできない。(かわぐち・のりひろ=文学賞研究家)★うえだ・さゆり=作家。『火星ダーク・バラード』で小松左京賞を受賞しデビュー。著書に『華竜の宮』(日本SF大賞)『破滅の王』(直木賞候補)など。