北魏を建てた鮮卑拓跋から胡漢融合を読み解く 綿貫哲郎 / 東京外国語大学AA研フェロー・清朝史 週刊読書人2023年7月7日号 中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史 著 者:松下憲一 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-531839-3 中国というと漢族の国家のイメージが強いが、いまの中国に占める漢族の人口は九十二パーセントで、このほか五十五の少数民族が八パーセント存在する。この五十六民族は、均しく現代中国を構成する「中華民族」である。 中国の歴史とは、一面では農耕民の漢族と北方異民族による対立と融合の歴史である。夷狄とよばれた北方異民族とは、金と清を建てた女真族こそ半農半狩猟民だが、大半は北方遊牧民である。彼らは遊牧世界と農耕世界のはざまを本拠とし、五胡十六国・北朝・五代・遼・金・元・清の各王朝を建てたが、近年は隋・唐をも含むという。かつて遼・金・元・清が「征服王朝」とよばれ、北方異民族の独自的価値を政治機構のなかに盛りこんだ国家体制を編みだしたのに対して、鮮卑拓跋が建てた北魏(四三九~五三四年)は、圧倒的にすぐれた漢文化の国家体制や文化政策をとった結果、漢族に浸透・同化した「浸透王朝」と言われた。 本書では、遊牧民の鮮卑拓跋の歴史を述べる。彼らが「漢の中華」と融合を繰り返した結果、「唐の中華」つまり現在に続く「中華のスタンダード」として創造されたことを、魅力的な章タイトルを添えてまとめている。 三世紀中頃、現在の内モンゴル南部で遊牧していた鮮卑拓跋は、部族国家を築くと中華王朝の西晋(三国志の魏の後継)から代王に封じられて中華世界の一員となった。三八六年に代より魏へ国名を変更したが、最大のライバル鮮卑慕容部(後燕)を平定すると、矢継ぎ早に皇帝制度を整備した。このとき慕容部が有した中華の正統性と遊牧民鮮卑の両方の起源を拓跋部の開国説話に組み替え、さらに慕容部を乗り越える創作を加えたが、寄与したのは、いずれも後燕から帰順した漢人知識人たちであった。 著者は、鮮卑拓跋の代が五胡十六国に数えられないのは、華北での雑多な異民族による地方政権の戦乱を収めたのが中華王朝たる北魏太武帝だとする北魏時代の歴史認識の反映だと述べる。また国号の変更は、東晋(江南を支配する西晋の亡命政権)の正統性を認めないためで、拓跋部と最初に往来した三国時代の中華王朝・魏との繫がりからという。とはいえ、遊牧民由来の西郊祭天が重視されたことや、子貴母死(皇帝の後継者を生むと生母が死を賜る)・金人鋳造(金属製の人像を鋳造できるか否かで立后が決まる)・レビレート婚(夫の死後に夫の兄弟などと再婚する)など遊牧国家の要素は否定されていないという。 北魏が中華王朝か遊牧国家かを判断するポイントの一つは、部族連合体が解散されたか再編されたかの判断にあるが、後者が優勢という。このほか孝文帝が平城から洛陽に遷都し、胡俗(胡語・胡服・胡姓)を放棄する漢化政策をおこなった問題は、実際、胡語は朝廷での使用言語を洛陽方言の漢語に統一しただけであること、胡服は官僚・后妃の制服を中国式に改めただけであること、胡姓は胡族と漢族を同じランクに置くための措置の一つであることなど、いずれも全面的な禁止ではないという。北魏は、皇帝権力強化のために遊牧と中華両方の文化を柔軟に取りいれたが、胡俗を棄て去っておらず、胡床(腰掛)・胡坐(足を垂らして座る)・餅(粉食)・ペットの犬などが新たに漢族の文化となり、「唐の中華」の礎となったのである。 いまの漢族は、漢代の原型をとどめない変化を繰り返したが、歴史的に「巨大な漢という名の甕に、各時代の民族の文化が豪快に注ぎ込まれ混ざりあった民族」のイメージが大きい。この漢族のことを、日本ではしばしば漢民族と表記する一方、モンゴル族・チベット族などの少数民族をモンゴル民族・チベット民族と表記しない事例が多い。これでは上位カテゴリーに漢民族・少数民族が併存し、少数民族の下位概念にモンゴル族などが存在すると間違えて理解されやすい。全五十六の中華民族のうち、漢族のみを漢民族と表記することは、知らずに大漢族主義や中華思想(中華=漢民族・夷狄=少数民族)を煽ってしまうのではと個人的に危惧する次第である。(わたぬき・てつろう=東京外国語大学AA研フェロー・清朝史)★まつした・けんいち=愛知学院大学教授・魏晋南北朝史。著書に『北魏胡族体制論』など。一九七一年生。