「名もなき者たち」の声も聞き取る包括 小林哲也 / 京都大学准教授・ドイツ文学・思想史 週刊読書人2023年7月7日号 ベンヤミンの歴史哲学 ミクロロギーと普遍史 著 者:宇和川雄 出版社:人文書院 ISBN13:978-4-409-03120-9 ヴァルター・ベンヤミンは「ミクロロギー」の人として知られる。「神は細部に宿る」ことをモットーとした美術史家アビ・ヴァールブルクのように、ベンヤミンも微細なものに熱中し、「些末なものへの畏敬心」を自身の歴史哲学の核心においていた。〈進歩〉の楽観からは見落とされる、〈断片〉化した〈残余〉の〈救済〉を重視するベンヤミンの歴史哲学に関しては、一九八〇年代以降、旧来の自民族中心の歴史学を乗り越えようとした歴史家たちの間でも着目され、カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアル批評の中でも大いに参照されてきた。しかし、この「ミクロロギー」的な思考は、偏狭な全体化のイデオロギーを批判する意義は認められるにしても、積極的な展望を示せずに、個別の事例に拘泥する「近視眼」ではないかという「嫌疑」がかけられるものでもある。宇和川は、本書において、ベンヤミンの「ミクロロギー」的思考と、それとは対極的にも見える「普遍史の理念」についての思考を接続させることで、こうした「嫌疑」を晴らしている。 本書は序章と終章、および本論六章からなる。それぞれの章は「形態と歴史」「文献学と歴史」といった形で、歴史との関係のもとでさまざまな文学者、思想家、思考モティーフとの関係が探られていく。ゲオルゲ派のグンドルフやグリム兄弟との比較研究が行われる前半の内容は文学史、思想史の中でのベンヤミンの位置付けを明らかにするものとしても非常に意義深い内容になっている。様々な対象についてなされる考察は多面的だが、文章が明晰なため読者は無理なく論旨を追うことができる。文体にはときに柔らかささえ感じる。特に注目すべきは、第二章である。グリム兄弟からの系譜の中でベンヤミンの「些末なものへの畏敬心」の意義を明らかにし、本書全体の議論の下支えとなっている。 最も重要な一章は「言語と歴史」と題された第六章である。宇和川は、ベンヤミンの歴史哲学を論じるにあたって通例参照される『ドイツ悲劇の根源』や「歴史の概念について」に加えて、それ以前のベンヤミンの歴史哲学構想に着目し、そこから「歴史の概念について」で語られる「普遍史の理念」の意義を明らかにしていく。ベンヤミンは博士論文『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』の構想過程において、フリードリヒ・シュレーゲルの「普遍詩」の理念に着目していた。ここで言われる「普遍詩」は詩のジャンルというよりも、一種のメタ文学的理念で、詩や小説のみならず、これらの批評や反省、「イロニー」をも含んで広がる「無限に開かれた文学空間」を指す。あらゆるジャンルに開かれたこの「普遍詩の理念」と、ベンヤミンが歴史哲学の領域において語る「普遍史のメシア的な理念」との呼応を明らかにしたものとして本章は意義深い。 ベンヤミンが構想した「普遍史」は、華やかなる文化的営為を集積させていく類のものではなく、「名もなき者たち」の声をも聞き取る、全ての過去を包括する理念としてあった。この「普遍史の理念」の意義を宇和川は次のように語っていく。個々の人間が「普遍史」の全体を視野に入れ、神のような視点で全ての過去の救済を語ることはもちろんできない。しかし、個々の人間、個々の歴史家、「苦境の中で過去を振り返る全ての人々」は、過去を想起することにおいて、「普遍史」という「理念の一端」に触れる。「断片」を救い出すという、無に帰すのではないかとも思われる行為は、かすかながらではあるが「われわれ」にも開かれた「メシア的な力」を通じて、「理念」と響き合う。このように個々の人間の思考と行動が「真の普遍史」と関わる回路を浮かび上がらせることで、本書は、われわれに静かに連帯を呼びかけている。文学・思想研究としても重要である本書の大きな意義は、ベンヤミンの歴史哲学が、「全体化の暴力」に抗して、語られぬままの個物を救い出そうとするものであるだけでなく、「われわれ」に行為を呼びかけるものでもあることを示していることにある。(こばやし・てつや=京都大学准教授・ドイツ文学・思想史)★うわがわ・ゆう=関西学院大学准教授・ドイツ文学・思想史。二〇一六年に京都大学文学研究科博士後期課程にて博士号(文学)を取得。一九八五年生。