総勢11名の共同作業で挑むアドルノ、ホルクハイマー 早尾貴紀 / 東京経済大学教授・社会思想史 週刊読書人2023年7月14日号 『啓蒙の弁証法』を読む 著 者:上野成利・高幣秀知・細見和之編 出版社:岩波書店 ISBN13:978-4-00-061578-5 『啓蒙の弁証法』は、ドイツ系ユダヤ人の二人の思想家、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノの共同執筆による文明史の哲学的考察であり、ナチス政権からアメリカ合衆国に亡命していた第二次世界大戦中に執筆された。啓蒙的理性の展開は、文明の発展を支えてきた一方で、しかしそこには不可避的にさまざまな形での抑圧や暴力が内在しており、そして最終的に世界大戦・ユダヤ人虐殺といった野蛮へと頽落していった。同書はその原因と過程を思想史的に分析している。 とはいえ、その題材から文章までが難解で知られる『啓蒙の弁証法』は読み通すことが困難であるばかりか、単に戦争や虐殺のみでなくナチスに対抗していたはずのソ連の社会主義や米国の自由主義もまた啓蒙の帰結として批判対象に含まれうること、および、著者らの理性による理性批判に遂行的矛盾が含まれていることから、議論が多義的に開かれている。 そこで『啓蒙の弁証法』の全面的な読解を試みた共同作業である本書は、徹底的にテクスト内在的に全6章を読解したうえで(第Ⅰ部「テクストを読む」)、さらに同書の思想史的位置づけや同書の受容を多面的に論ずる(第Ⅱ部「コンテクストを読む」)、という、立体的な二部構成になっている。 紙幅の都合で、第Ⅰ部からは、麻生博之氏の「Ⅱ オデュッセウス論――主体性の原史と神話」および上野成利氏の「Ⅲ ジュリエット論――自己保存原理と道徳」を論ずる。『啓蒙の弁証法』においてこの二つの章は、「補論」とされる一方、続く「文化産業」および「反ユダヤ主義」といった具体的な主題の章と比べると目立たない位置づけにある。それにもかかわらず、野蛮の問題を「近代」にとどまらない文明史に一貫したものと捉えなおし神話と啓蒙との相互浸透的な関係を理解するうえで、対をなす重要な章である。 オデュッセウスは古代ギリシャ叙事詩『オデュッセイア』の主人公であり、麻生氏の整理によると、これは「神話」であると同時に、主人公が機知によって合理的に思考し冷静な策略によって怪物や神々と対峙しながら帰郷する物語である。その意味では「啓蒙」でもある(第一テーゼ「すでに神話は啓蒙である」)。しかし同時に啓蒙の合理的な主体としての自己を獲得するその過程で、オデュッセウスは、暴力と犠牲という代償を支払うことになるが、それは自己の放棄であり、「断念する主体」となる。このことは、主人公の婚姻と帰郷にも深く関わってくる。婚姻は、性的衝動の充足であると同時に、その制約による「自己去勢」でもあり、また、故郷は「望郷」という欲望の対象であると同時に、困窮や暴力からの脱出すなわち神話的なものからの離脱である。このように、「すでに神話が啓蒙である」という第一テーゼは、神話に啓蒙が内在するだけでなく、その啓蒙が神話的暴力を継承しつつもそのことを冷静に自己省察する入れ子構造になっていると麻生氏は論証している。 ジュリエット論では、一八世紀末のマルキ・ド・サドの小説『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の背徳的快楽を追求する主人公を論じながら、カントとニーチェを補助線にしつつ「啓蒙は神話に退化する」という第二テーゼが論証される。啓蒙を推し進めるカント的な「理性」の本質が、自然の支配にあること、しかも外的自然だけでなく、内的自然としての「情念」の制圧にあるというが、上野氏によればそれは、理性を補塡するために外部化された情念が要請されている、という関係性でもある。したがって、一見するとカント的理性の厳格な道徳性とサド的な反動徳性とは対極に見えながら、ジュリエットは、内的自然としての情念を自ら徹底しながら背徳行為を重ねている点で、実は忠実なカントの弟子でもある。この「価値の転倒」という点で、ニーチェによる道徳批判や「超人」思想が結びつけられ、また家父長的・キリスト教的な西欧文明に内在する女性憎悪とユダヤ人憎悪の心的機制が説明されていく。上野氏はサド/ニーチェの思考の徹底化は、啓蒙の自己崩壊を露呈させた一方で、そのことを自己批判する力をも同時に示唆していることを強調する。このようにこの二つの章は、啓蒙と神話の重層的な関係を文明史から深く論じていることがわかる。 次に本書第Ⅱ部からは、フランス現代思想との関係を論じた宮﨑裕助氏の「来たるべき啓蒙への問い」を取り上げる。宮﨑氏によると、フーコーは、『啓蒙の弁証法』における「理性の自己崩壊」といったテーマは自分の課題ではないと斥けた。だが、最晩年にカントの「啓蒙とは何か」を論じた際に、啓蒙を「脱出」の行為と定義していることと、その脱出は本人の決意と勇気によって遂行されるパフォーマティヴな活動だと定義していることにおいて、『啓蒙の弁証法』における啓蒙理解と相反するものではない、と指摘する。さらにデリダについても、『啓蒙の弁証法』に取り組んだ形跡は見られないが、フランクフルト学派第二世代のハーバーマスが『啓蒙の弁証法』およびデリダの脱構築の思考とをともに「行為遂行的矛盾」である、つまり理性による理性批判の矛盾だと論難したことを参照しつつ、行為遂行的矛盾をあえて否定性として保持しようとしていた点で、デリダと『啓蒙の弁証法』とが類似していることを宮﨑氏は指摘する。フランス現代思想と『啓蒙の弁証法』とは確実に共鳴していると言える。 ところで編者らは「あとがき」で執筆者が男性ばかりとなったことに反省を述べるが、評者はこれを重く捉えている。というのも、啓蒙的理性が「男性中心主義」的であることは、『啓蒙の弁証法』の重要な核心部分でもあるからだ。具体的にアドルノ研究者の女性の名前も上がるだろうし、第Ⅱ部に「ジェンダー/セクシュアリティ」から読解する章を加えることもできたはずだ。日本の学界の男性中心主義の根深さを感じる。〔執筆者=細見和之、麻生博之、上野成利、竹峰義和、藤野寛、見附陽介、古賀徹、高幣秀知、宮﨑裕助、日暮雅夫、徳永恂〕(はやお・たかのり=東京経済大学教授・社会思想史)★うえの・なりとし=神戸大学教授・政治思想・社会思想史。著書に『暴力』など。一九六三年生。★たかへい・ひでとも=北海道大学名誉教授・社会思想史・哲学。著書に『ルカーチ弁証法の探究』など。一九四八年生。★ほそみ・かずゆき=京都大学教授・ドイツ思想。著書に『京大からタテ看が消える日』など。一九六二年生。