――規範創造性の射程―― 近藤和敬 / 鹿児島大学准教授・哲学・倫理学・エピステモロジー 週刊読書人2023年7月14日号 生命と規範の哲学 カンギレム『正常と病理』を読む 著 者:ギヨーム・ルブラン 出版社:以文社 ISBN13:978-4-7531-0373-7 最近、ふたたび「フランス・エピステモロジー」とは何であったのかということを考えなおすことがある。エピステモロジーは、科学理論あるいは科学的概念の歴史内在的な分析に基づく認識論あるいは認識批判の試みであると言われれてきた。そこではカント『純粋理性批判』に認識批判に起源を求め、カント的な認識批判に対する実証科学史的な観点からの修正の試みとして、エピステモロジーは理解されてきた。しかし本当にその描像は歴史的真実を言い当てているのだろうか。 例えば本書で取り上げられるカンギレムは医学・生物学の科学認識論を実践した哲学者として日本でもよく知られ、彼の公刊著書の多くはすでに翻訳されている。既存の枠組みで理解するなら、カンギレムの仕事はいわゆる科学哲学に含まれ、とくに個別科学史に造詣の深い科学哲学として受け入れられてきたと思われる。しかしこの観点は、彼の著作の細かい機微を丁寧にみていくとだんだんぼやけてくるところがある。いったい彼はなぜ医学と生物学の歴史的認識批判を実践しなければならなかったのか、その必然性がわからなくなる。その戸惑いは、近年刊行が続いているカンギレムの全集に含まれている彼の一九三〇年代のテキストを見るとより一層強まっていく。そこで問題になっているのは、労働と行為と自由の問題であって、科学とは遠いように見えるのだ(この点についてはX・ロート『カンギレムと経験の統一性』を読まれたい)。そして彼を医学・生物学の科学哲学者としてしまうことは、フーコーをはじめとした同時代の哲学者たちに彼が及ぼした広範な影響を理解不可能なものにしてしまうようにも思われる。 ルブランの本書(原書の初版は一九九八年刊)は、この疑問にたいして重要な示唆を与えてくれる。カンギレムが医学・生物学の科学認識論を実践することで導く最も重要な概念は「規範創造性」と訳されるnormativitéの概念であることはよく知られる(ちなみに、「規範創造性」は訳者の坂本尚志によるもので、この概念の内実をよく表していると思われる)。この概念は『正常と病理』において導出され、医学・生物学の実証性を支える生命の特異性を表現しようとしたものであり、それによって生きるものは、生きる環境の変化のなかで自ら「規範norme」を生み出そうとする傾向性をもつ。人間は、一面においてそのような生きるものである。しかし同時に人間は、社会的なものでもある。しかし社会的なものは生きるものの外部にあるというよりも、個体と異なるスケール(時間的―空間的)において個体を巻き込む「規範的創造性」の発露だと考えることができる。「人間の身体の形態と諸機能は単に環境によって生命に作られた諸条件の表現ではなく、社会的に採用された環境におけるさまざまな生の様態の表現でもある」(本書一〇三頁におけるカンギレムからの引用)。人間の「主体的創造」はここにおいて、すなわち生命的な個体の「規範創造性」と社会的な集合体の「規範創造性」のあいだで、その両面によって多重決定される仕方で発生する。「生命の欲求は社会的行為を基礎づけないが、社会的欲求は「社会をその諸欲求の有機的主体にする」ことによって生命の欲求を再創造する」(本書一〇八頁)。評者の表現でいえば、社会とは生命の襞であり、生の上で反復された二度目の、しかし一度目とは異なる生であるのだ(言うまでもないが、それは社会的機能を生物的機能のアナロジーでとらえる社会有機体説とは関係がない)。人間の主体はそのあいだ、二つの「規範創造性」からの距離を生み出す創造性として規定しうるだろう。そして科学という認識行為それ自体もまた、このような社会の規範創造性との関係においてこそ理解されるようになる。 ルブランのようにカンギレムの議論を見通すとき、カンギレムの哲学の本質は、科学のための科学批判ではなく、人間とその集合体が形成する社会と、さらにそこで実践される科学技術とのあいだに形成される歴史的関係性それ自体の批判的分析であり、その意味で言えば、科学哲学である以上に、社会哲学でもあることになる。そしてこのようなエピステモロジーの理解は、最初に掲げた疑問へのひとつの答えを与えてくれるものであるようにも思われるのだ。(坂本尚志訳)(こんどう・かずのり=鹿児島大学准教授・哲学・倫理学・エピステモロジー) ★ギヨーム・ルブラン=パリ・シテ大学教授・社会哲学・政治哲学。著書に『小さな生の反乱』『対抗文化としての哲学』。一九六六年生。