「遮断されている」「通路」を可視化させるタブーへ踏み込む考察 太田靖久 / 小説家 週刊読書人2023年7月21日号 奴隷と家畜 物語を食べる 著 者:赤坂憲雄 出版社:青土社 ISBN13:978-4-7917-7546-0 同著者の『性食考』(二〇一七年、岩波書店)では、「食べること/交わること/殺すこと」が主題であった。本書はその類書といえるエッセイ集だ。 タイトルにある「奴隷」は、人間を使役したり売買するための動産として扱うことであり、「家畜」は、動物を自らの生活に役立たせたり食料とするために育てて殺す行為を指すのだろう。対象が人間と動物の違いはあるものの、主人や飼い主の管理下のもと、自由を放棄させたり、主体性を剝奪したうえで従属させる点では同じである。 本書は古今東西の物語などに触れ、「奴隷」や「家畜」のキーワードを軸に解体して消化・吸収する行為を「食べる」としながら、「食べることの不思議を、あくまで文字や映像の織物を仲立ちにして手探りに追いかけてみたい」と宣言し、その行為を黒人奴隷の歴史と重ねたり、臓器移植について言及したりもしている。 こういった考察は時に忌み嫌われる場合もあるはずだ。なぜなら「文明とはつねに、殺す/殺される関係が抱えこまされている直接性を緩和し、あるいは隠蔽する方向へと転がってきた。わたしたちが毎日のように食べている死体の前史を想像することは、ほとんどないし、そのイマジネーションの通路はたいてい遮断されている」からだ。著者はその「遮断されている」「通路」を可視化させるために、ある種のタブーへと踏み込んでいる。 その試みにおいて、本書タイトルの「物語を食べる」の部分にも注目すべきだ。著者が立つ位置はあくまで「食べる」側であり、「食べられる」側ではないという表明だ。しかし支配者と被支配者の立場は絶対ではない。社会的権利や暴力や宗教的な強制力によって支配構造が保たれているケースはあるものの、状況の変化や反乱などのきっかけにより、逆転したりもする。そういった例として、映画『猿の惑星』や、藤子・F・不二雄の漫画「ミノタウロスの皿」や、ジョージ・オーウェルの小説『動物農場』を著者は列挙し、解説している。 そういった先人たちの創作によってさまざまな可能性が披露されているにも関わらず、私がイメージしやすいのは常に「食べられる」側である。何十年も労働者として過ごした日々により、半ば洗脳されているのかもしれない。捕食行為のサンプルが本書内で次々と提示されるため、肉体的にも精神的にも逃げ道をひとつひとつ塞がれていく気分になり、人間の欲望を起因とした争いや策略の数々に胸やけがしてくる。 上になり下になりといったやりとりをくり返しながら、「食べる」側も「食べられる」側も結局は同じ方向を目指して進んでいるのだろう。何かを食さなければ生きていけない私自身もこの構図に当然組み込まれていて、逸脱することは難しい。そう思う中、本書内で取り上げられているエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』の説明個所で目がとまった。「国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにも与えず、まったく従うことをしなければ、戦わず攻めることもなく、その者は裸同然であり、敗北したようなものであり、もはや無にひとしい存在となる」。ちなみに文中の「その者」とは「王」のことだ。 新しい命を産んだり育てたりすることで他者や動物たちを「奴隷」や「家畜」にしてしまうのならば、そもそも産まないことで「食べる」/「食べられる」個体をこれ以上増やさないようにすれば良いのではないか。そう気づいた時、我が国の現況が想起させられた。団塊ジュニアの子供世代にあたる人口再生産率は七〇%を割っているという。このハンガーストライキにも似た静かな出来事は、実は人類の欲望への抵抗といえるのかもしれない。 私自身はその団塊ジュニア世代でありながらも、生きることに執着し、他者(本書)の言葉を材料として自分なりの味を加えた料理(書評)を差し出し、小銭を得ている。そうやっていまだ食物連鎖の渦中にいると自覚しながら、この文章を読む人には「食べられる」覚悟でこの評を終える。お味はいかがでしたか?(おおた・やすひさ=小説家)★あかさか・のりお=学習院大学教授・民俗学・日本文化論。著書に『岡本太郎の見た日本』(ドゥマゴ文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞〈評論等部門〉)『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』『象徴天皇という物語』『武蔵野をよむ』『性食考』『ナウシカ考』など。一九五三年生。