西洋音楽史の問題を現在の私たちに結び付ける試み 齋藤桂 / 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター講師・音楽学・日本音楽史 週刊読書人2023年7月21日号 ミュージック・ヒストリオグラフィー どうしてこうなった? 音楽の歴史 著 者:松本直美 出版社:ヤマハMEH ISBN13:978-4-636-10116-4 何か特定の事例についての音楽史ではなく、「音楽史はいかに書かれてきたか」という問題をテーマにした本である。歴史学では、たとえば日本では明治の修史事業以来のテーマではあるが、音楽でこのことが問題となることは少ない。しかし、音という記述や保存の難しいものを使った芸術形態である音楽ゆえ、その歴史を「何のために」「どのように」書くのか、読むのか、という問いのもつ意味は大きい。 本書は三部構成となっている。第一部は、肖像画や伝記がもった役割(第一章~第二章)、古典派やロマン派といった時代区分の成立とその功罪(第三章)。第二部は、いわゆる「名曲」の成立(第四章~第七章)。第三部は「音楽史の明日を考える」と題され、現在もなお音楽を歴史的に捉える視点が更新され続けていることについて、いくつか例を挙げて論じている(第八章~第十二章)。文体もフランクかつですます調で、ポップな表紙と相まって、専門家ではなく、とにかく一般向けにという指向がみてとれる書籍である。 第一部の、肖像画や、しばしば逸話にまみれた伝記が、抽象的な音楽の理解に具体性をもたせる手段であったという指摘は面白い。今もなお、たとえ信憑性が薄いと分かっていても、スター音楽家の「伝説」や「武勇伝」に惹かれるものだし、それらを通じて音楽を理解している面も少なくない。また、地域差を無視して古典派やロマン派などと区分することによる問題点の指摘も、一方的に否定するのではなく、常に考え続けねばならないものである、と現在進行形の問題として扱っている。 第三部での歴史的な知見を実際の演奏にどう反映するか、という話題については、どれだけオーセンティックに過去の楽器や奏法を再現したとしても、聴く側の意識が現代のものである以上「『ほうほう、これが過去の音なのか!』として感じてしまうことからは逃れられない」(二五〇頁)と書かれている。この指摘は、研究と演奏、聴取の三つの立場に必然的に生じるずれを上手く表している。 このように、本書の美点は西洋音楽史の問題を、現在の私たちに結び付けようとしている点である。それは著者が演奏に近いところで音楽学に関わっているからかもしれない。 だが一方、著者の専門を外れたところでは若干危なっかしい記述も散見される。 たとえばディズニー映画『ファンタジア2000』が「人気」と書かれていたり(興行収入では前年のディズニー映画『ターザン』の四分の一以下である。もちろん「人気」=興行収入ではないにしても)、ボブ・ディランの「風に吹かれて」(一九六三)がベトナム戦争に対するプロテストソングとして発表されたかのように記述していたり(若者が歌を歌うようなベトナム反戦運動が盛んになるのは作品発表後の六〇年代後半以降)と、直ちに誤りというわけではないかもしれないが、より慎重な書き方が望ましいと思う。 さらに、日本の音楽室にある作曲家の肖像についてテレビ番組「チコちゃんに叱られる」を参照して、戦後に普及した説を紹介しているが、山本耕平2015「音楽教育における「肖像画」の問題について」(大阪大学『フィロカリア』32: 11-21)が明らかにするように、戦前から取り組まれていたことである。 出典のない参考文献に基づく記述もあり(「ハードロック・バンドのヴァン・ヘイレンもこの曲〔ヴィヴァルディ『四季』のこと〕に影響を受けたことを認めています」二八九-二九〇頁)、これらは著者にとってはどれも本題から外れた余談なのかもしれないが、余談に対して不誠実では文化史など成立しないだろう。 また、音楽史記述におけるジェンダーや脱植民地化の問題も扱っている書籍が、天皇「陛下」、エリザベス女王が「崩御」などという、身分制を肯定する語彙を用いていることには違和感を覚える。 本書が扱う問題は、私たちが日々聴いている音楽を考える上で多くの示唆を与える。馴染みのある時代区分のみを通じて音楽を理解しようとしたり、名曲の羅列として音楽史を捉えたりすることが一般的な聴衆にとっては刺激的な内容でもあると思う。それだけに、間口を広げようという試みで失敗していることが惜しい書籍でもある。(さいとう・けい=京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター講師・音楽学・日本音楽史)★まつもと・なおみ=英国ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ音楽学部上級講師・歴史的音楽学・オペラ研究。イタリアルッカ市ロータリークラブプッチーニ研究コンクール特別賞などを受賞。