入門書にして実践書も兼ねる 高田宏史 / 岡山大学准教授・思想史・政治学 週刊読書人2023年7月21日号 公共哲学入門 自由と複数性のある社会のために 著 者:齋藤純一・谷澤正嗣 出版社:NHK出版 ISBN13:978-4-14-091278-2 マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」がNHKで放送され、その著書『これからの「正義」の話をしよう』が出版されたことにより、政治哲学に注目が集まったのは、二〇一〇年のことである。しかし、時ならぬサンデル・ブームは、ハーバードの学生たちと「サンデル先生」との丁々発止のやり取りや、トロッコ問題のような倫理的ジレンマへの関心を惹起したにとどまり、政治哲学(公共哲学)の具体的な内容理解の増進にはほとんどつながらなかった。他方で、本来公共哲学が取り組むべきさまざまな政治的・経済的・社会的諸問題は、ますますその複雑さを極めつつ、緊急性を帯びたものとなっている。こうした状況の中で、それら諸問題を考えるための方法としての公共哲学は、単なる知的な流行としてではなく、本質的な意味で必要とされ、渇望されているように思われる。実際、それらの諸問題の存在は明白であり、かつ、インターネット等を通じてそれらについて大量の情報を容易に手に入れることができるにもかかわらず、そうした情報を基にして、「それら諸問題についてどう考えればよいのかわからない」という嘆きにも似た切実な訴えを耳にすることもある。本書は、そうした複雑化する現代世界の公共的諸問題に対して、市民としての私たちがどのようにアプローチしうるかを簡明かつ直截に示す、非常に優れた入門書である。 優れた入門書には、必要な情報が適切な順番で提示され、かつその叙述が明快であることが求められる。本書は、まず公共哲学が何を対象とする探究であるのかから始まり、そうした探究がたどってきた歴史が示されたうえで、現代の主要な公共哲学の理論が紹介され、そうした探究が現代世界の諸問題に対してどのようなアプローチをとりうるのかが思考の実践問題として取り上げられる。こうした構成は入門書としてはオーソドックスなものであると思われるが、類書と比べてもその叙述の明快さと提示される情報の適切さは際立っている。これは、もしかすると、本書のもととなった大学の授業における実践を通して、何を書くべきか、そして何を書かないでおくべきかという叙述の取捨選択の精度がブラッシュアップされてきたことを意味するのかもしれない。つまり、教師と学生とのインタラクションによって、本書の叙述は練磨されてきたのではないか。本書には、初学者や独学者が陥りがちな誤解を先回りして解いていくような叙述がしばしばみられる。一例をあげれば、ロールズの正義の二原理を「トリクル・ダウン」に似ているとする解釈や、それがアファーマティヴ・アクションを要求するという解釈などにたいする言及がそれにあたる。こうした工夫は、一般の読書公衆に開かれた入門書として、非常に適切である。読書する市民には、常にメンターがいるわけではない。だからこそ、すべての誤読・誤解の可能性に対処することはできないにしても、それができる限り生じないようにする工夫は、望ましくもあり必要でもある。ところが実際にそうした配慮・工夫が行き届いている「入門書」は、必ずしも多くない。 さらにもう一点、本書は実際に公共哲学の考え方を用いて、具体的に諸々の公共的な事柄をどう考えることができるのかという点にも十全に配慮がなされている。具体的な諸問題を取り上げる第八章以降の叙述は、しばしばそれ以前の理論的な解説への参照を行いつつ記述されている。前述したとおり、本書は入門書としてはオーソドックスな構成であるが、基礎(理論)と応用(実践)が断絶しておらず、基礎となる理論を通して具体的な諸問題についてどのように考えることができるのかという実践的な例示でもある。そしてそこで示される展望は、時に非常にラディカルな提案を含んでいる――例えば、第九章第三節で示される展望など。その意味で、本書は入門書であると同時に、市民性教育(主権者教育)の優れた実践の書でもあるのだ。(たかだ・ひろふみ=岡山大学准教授・思想史・政治学)★さいとう・じゅんいち=早稲田大学教授・規範的政治理論。著書に『公共性』など。一九五八年生。★やざわ・まさし=早稲田大学准教授・政治理論。共編著に『悪と正義の政治理論』など。一九六八年生。