同時代の優れたジェンダー/セクシュアリティ論入門 鮎川ぱて / ボカロP・音楽評論家・東京大学教養学部・東京藝術大学音楽学部非常勤講師 週刊読書人2023年7月28日号 ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと 著 者:アンジェラ・チェン 出版社:左右社 ISBN13:978-4-86528-366-2 アセクシュアルとは、「他者に対して性的に惹かれない」あり方。ACE(エース)とはその当事者のことである。「すべての人は性的惹かれを経験する」などという全称命題は、いまも昔も成り立たない。にもかかわらず、その命題を自明化する「強制的性愛」の観念はいまも昔も社会に染み渡っている。強制的性愛からの脱却、すなわちエースの解放は、エースのみならず、社会全体に真の性的自由をもたらすことになる。本書を読んでいただければ、あなたもきっとこの主張に賛同いただけると思う。 エースである著者は、本書のために、100人のエースたちのインタヴューを行った。だから本書の主人公は、一様ではありえない、多様なたくさんの(著者を含む)エースたちだ。彼/彼女らの言葉の響きを損なわないことをもっとも尊重しただろう著者の記述は、そうであればこそ、「性」なるものと、それにまつわる権力構造のすべてを高輝度で照らし出す。トランプのゲームにおいてエースがときに特別な切り札になるように、エースたちは、私たちが選択の余地なく投入されたかのようなこの「性、あるいは生」というゲームがなんであるかを、それぞれに感じる固有の「違和」を重ね塗りしていくことで、驚くほど正確な姿で描出していく。 強調すべきは、その結果、本書が同時代の優れたジェンダー/セクシュアリティ論入門たりえていることだ。フェミニズム、ジェンダー・スタディーズ、クィア・スタディーズ、インターセクショナリティ研究(人種や障害など、性以外の属性と複合して生じる「交差性」の研究)など、同時代の重要な議論を網羅している。固有の経験を語る主人公たちのエピソードを、それらの先行議論に接続していく丁寧な筆致に舌を巻く。しかも、平易なのだ。訳者による副音声的な脚注も非常に充実していて、入門書としての親切さを増幅している。 著者のアンジェラ・チェンはジェンダーに加え科学技術にも明るく、『WIRED』などにも執筆するジャーナリスト。彼女は何度も強調する。「アセクシュアルは不可視化されてきた」。彼女は性嫌悪があるわけではなく、パートナーがいた経験も、セックスをした経験もある。けれども、そこに「性的惹かれがなかった」こと、すなわち自分がアセクシュアルであると発見するのに時間がかかった。なぜなら、アセクシュアルは「否定を通して」説明されるから(「a」は否定の接頭辞)。「フツー」の人とは違うのだという明確な差異によって定義されるべきという観念が、ほかならぬ(チェンを含む)エース当事者たちをこそ混乱させ、ときに自責の念を強いさえすることもあった。 その迷いにつけ込む者もあった。あるエースの女性には、インテリで、リベラルで、進歩主義的な男性の隣人がいた。隣人はフロイト主義者でもあった。隣人は親身になって言う。女性に貞淑であること、性に消極的であることを植え付けて男性中心主義を温存してきたのが家父長制だ。あなたは進歩的な女性であればこそ、それに抗って、性的に積極的であるべきだ。隣人はそう言って、エースに関係を求めた――「お前を解放させてくれよ」(第4章のタイトル)。 家父長制が女性を性的に抑圧してきたのは事実で、それに対抗するセックス・ポジティヴなフェミニズムがあることも事実だ。だがそれは、上述したケースのような男性による完全な悪用でなかったとしても、エースを「抑圧された可哀想な人」と指差すものであってはならない。性の解放はひとつのやり方しかない、ということはない。続けて語られるのは、ムスリムのフェミニストのエースの話。エースの目の前で、エース自身を当事者として取り込みながら、さまざまな問題がまさに「交差」していく。 最後に。拙著『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の中で、性愛のフツーを疑う感性を「アンチ・セクシュアル」という独自概念で名づけ擁護した私としては、本書を読み進めながら、自著と同じく、若い世代に広く読まれてほしいと何度も強く思った。若者はバカではない。眼前に広がる性の世界が、強制と禁止、誘導と排除が精緻に編み込まれた複雑なものであることを、つまり命令に満ちたものであることを、その圏域に入る手前で直観している。本当はそれは自由なのだ、と言うエースたちの言葉とともに性に触れることは、マイノリティはもちろん、マジョリティになる若者にとっても大きな安心となるはずだ。そして、かつて若者だったすべての人にとっても。(羽生有希訳)(あゆかわ・ぱて=ボカロP・音楽評論家・東京大学教養学部・東京藝術大学音楽学部非常勤講師)★アンジェラ・チェン=ジャーナリスト・ライター。現在、『Wired』の上級エディター。『ウォール・ストリート・ジャーナル』『アトランティック』『ガーディアン』『パリ・レビュー』『ナショナル・ジオグラフィック』などで執筆。エース・コミュニティの一員で、学術会議やワールドプライドを含むイベントでアセクシュアリティについて講演を行っている。