人と歴史が乱雑に交差する美しい物語 宮崎智之 / フリーライター 週刊読書人2023年7月28日号 飢えた潮 著 者:アミタヴ・ゴーシュ 出版社:未知谷 ISBN13:978-4-89642-690-8 著者のアミタヴ・ゴーシュは、インド・コルカタ生まれの英語作家であり、幅広い知見を導入したスケールの大きな作品で世界的な評価を得ている。『飢えた潮』は二〇〇四年に出版され、このほど待望の邦訳が刊行された。神話、地質学、歴史、宗教、政治、動物行動学、気象、災害、言語学などの知識を総動員し、壮大なフィクションに落とし込んだ本作は、ゴーシュの作品の中でも一際、読みやすく、まだ作品に触れていない者にとっては、格好の入り口になると感じる。 物語の舞台は、主にインドなどのガンガー河口に広がる大マングローブ地帯、シュンドルボンである。無数の水路で隔たれた島々のある地域であり、物語で重要な位置を占めるルシバリ、ガルジョントラは架空の地名だ。シュンドルボンは「美しい森」という意味の語だが、現地では「潮の国」と呼ばれている。「満潮時、この土地は水面下になかば姿を消している」からだ。この地を調査研究のために訪れたインド系米国人で、海棲哺乳類の若手研究者・ピア、ニューデリーで通訳、翻訳サービスの会社を経営するカナイ、カナイの伯母であり、ルシバリでNGOを運営する有力者のニリマ、シュンドルボンの漁師・フォキル、ニリマのもとで看護師を志している、フォキルの妻のモイナなどの巡り合いや思いが潮の流れのようにせめぎ合いながら物語は進む。 また物語の時間軸ではすでに亡くなっているが、カナイの伯父、ニリマの夫であり、現地で学校長をしていたニルマルが遺した手記が物語を駆動させ、ニルマルが愛したリルケの詩集『ドゥイノの悲歌』がその底流をなしている。本書は五〇〇頁を超える大著であるものの、文体(翻訳)と台詞の掛け合いのテンポがよく、物語に引き込まれながら一気に読める。複雑ながらも流麗に流れる潮の流れが物語だとしたら、ニルマルの手記と、『ドゥイノの悲歌』はまるで河川の合流する「モホナ」のようである。現在進行の物語が時間軸であり、浩浩と広がるモホナが空間をなしている。空間はこの地がつむぐ歴史であり、人間の生の記憶でもある。 冒頭、現地近くの駅に向かう電車の中でピアとカナイが出会い、ルシバリで再会する。カナイは、ニリマからカナイ宛の手記が見つかったことを知らされ、ルシバリへと向かっていたのだ。ピアはイラワディ・カワイルカの調査のため森林局に掛け合ってボートとガイドを手配したのはいいが、調査が上手くいかないだけではなく、理不尽な言動に悩まされる。 しかし、ピアは偶然にフォキルと出会い、河や「潮の国」を知り尽くしている彼のおかげで調査は大きな成果を挙げて、さらに没頭していく。また、カナイも初めはルシバリ行きに乗り気ではなかったが、次第にニルマルの手記に書かれていることにのめり込んでいった。ピアの調査にも同行することになる。手記にはある事件にかんする貴重な記述のほか、「潮の国」についての警笛が書かれていた。 物語は最後に破局的な側面を迎える。しかし、貧困層をサポートするNGOを組織し、有力者となったニリマと、一時は革命と文学に命を燃やしながらも、精神のバランスを崩して学校長の任におさまっていたニルマルとの精神的なすれ違いは、思わぬかたちで結合したように評者は読み取った。ニリマ、ニルマル、そしてフォキルの母など以前から連綿と続く歴史の空間を、ピア、カナイ、フォキルらが探索し、まさに時間を動かしたのだ。個々人の多様な人生が絡み合う物語を、歴史を巻き込んだ壮大なスケールで展開させた著者の力量は、まさに世界文学の名に相応しい。 著者は「人新世」の文学を論じた批評的エッセイ『大いなる錯乱――気候変動と〈思考しえぬもの〉』(三原芳秋、井沼香保里訳、以文社)を二〇一六年に出版している(邦訳は二〇二二年)。『飢えた潮』は、『大いなる錯乱』よりも前に執筆された作品だが、本書の訳者である岩堀兼一郎が「あとがき」でも指摘しているように、『大いなる錯乱』で深めた思索は、すでに本書でも一部が結実されているように思う。『大いなる錯乱』は刺激的な文学論であり、こちらも強く推薦しておきたい。 本書の物語がそうであるように「ありそうもないこと」が実際に起こり得る現代において、リアリズムとは何かと筆者は考え込んでしまった。ゴーシュの作品は予見的な示唆に富んでおり、尚且つここまで評者を没頭させた物語は、今年一番のものであると感じている。(岩堀兼一郎訳)(みやざき・ともゆき=フリーライター)★アミタヴ・ゴーシュ =カルカッタ(現コルカタ)生まれの作家。英オクスフォード大で博士号(社会人類学)取得。邦訳された著書に『シャドウ・ラインズ』『カルカッタ染色体』、ノンフィクションに『大いなる錯乱』など。一九五六年生。