先入見や誤解を取り除きつつ、二つの軸を中心に論を展開 茂牧人 / 青山学院大学教授・近・現代ドイツ哲学・宗教哲学 週刊読書人2023年8月11日号 ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで 著 者:轟孝夫 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-532130-0 本書は、轟氏の四冊目の著作で、現在の段階で入手できる最新の研究成果を盛り込んだハイデガーの入門書となっている。この入門書は、これまでのハイデガー研究の先入見や誤解を取り除きつつ、二つの軸を中心にして展開していく。 その一つは、今ヨーロッパでは、ハイデガー全集がほぼ出そろい、最後の「黒いノート」という巻が出版されているが、その中にハイデガーの反ユダヤ主義的発言が含まれていることから、ハイデガーを論究することが避けられる風潮がある。しかし、著者は、以前刊行した『ハイデガーの超政治』(明石書店)を元に、さらに新しい知見を盛り込んで、この反ユダヤ主義的発言の本来の意味を探ろうとしている。 またもう一つは、ハイデガーの思索のキリスト教思想との対決である。この点については、前著『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)で、『存在と時間』執筆前後のキリスト教思想との対決が描かれていたが、それをさらに初期から後期の思索まで展開して、ハイデガーが、いかにしてキリスト教思想から出発して思索し、その後離れていったかを論究している。 まず著者は、ハイデガーの政治問題に関しては、彼の存在の思索が、共同体の形成、フォルクの基礎づけの問題と関わっていることを述べる。しかしこのフォルクは、決してナチズムのいう人種を意味しない。ハイデガーは、一九三三年にフライブルク大学総長に就任するが、その際「存在者全体(=存在)」の知である形而上学を基礎づけ(=超政治)、西洋的学問を根本から批判し、フォルクの共同体を形成しようと試みた。つまり、ナチズムをハイデガー自身の大学理念の実現のチャンスとみた。しかし、それはすぐに失望へと至り、三四年には、学長を辞任してしまう。そこから彼は、ナチズムへの批判を展開することになる。 著者は、このナチズム批判が、後期には「主体性の形而上学」批判となっていく様子を描く。主体性の形而上学とは、近代の西洋形而上学の完成形態であるが、存在者を制作可能なものとして、主体が役に立つものを支配するという「作為性」という近代の形態をとる。そこからフォルクの主体性の拡張としてのナショナリズムが現れてくる。そこでは、存在がもつ、人間の意のままにならないという性格が抹消される。それ故ナチズムは、力の無条件の全権委任というコミュニズムと同根となり、結局現代の民主主義国家においても、経済成長を至上目標としている限り同じ結果になると批判する。ハイデガーのこうした近代批判を土台として、ユダヤ主義も批判される。それ故ハイデガーの反ユダヤ主義的発言は、決して人種としてのユダヤ民族を批判しているわけではなく、主体性の形而上学批判という大枠の中での批判だということがわかるという。 最後にもう一つの軸であるキリスト教思想との対決である。著者は、もともとハイデガーの存在の思索は、キリスト教思想の神性の問いの延長上にあることを主張する。ハイデガーの思索の出発点には、人間の意のままにできない絶対者の存在への問いがあった。しかしさらに中期に至ると、ピュシスの探究などを通して、人間を圧倒する力をギリシアの起源に探るようになり、キリスト教から距離を取るようになる。また後期になると、存在の立ち去りや神の不在を問い、そこから形而上学としての宗教を批判・克服していくことになる。 ただ、評者としては、この後期のキリスト教思想批判、形而上学の克服というモチーフ自体が、実は、キリスト教の中の形而上学とは別の層、ルターやベーメの探究に起源と由来をもっていると理解しているが、その点について、轟氏の見解を聴いてみたいと思う。しかし本書は、最新の研究を元に、初期から後期までのハイデガーの思索全体を見渡せる良き入門書である。(しげる・まきと=青山学院大学教授・近・現代ドイツ哲学・宗教哲学)★とどろき・たかお=防衛大学校教授・ハイデガー哲学・現象学・近代日本思想。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得修了。著書に『存在と共同』など。一九六八年生。