安藤さやか / 音楽ライター 週刊読書人2023年8月18日号 フレディ・マーキュリー解体新書 著 者:米原範彦 出版社:平凡社 ISBN13:978-4-582-86031-3 偉大なるロックスター、フレディ・マーキュリーについて語る書籍は枚挙にいとまがない。最後の恋人と呼ばれたジム・ハットンが綴る『フレディ・マーキュリーと私』や、長年ローディーとしてクイーンに携わったピーター・ヒンスの記す『クイーンの真実』は直接の関係者が語るものであるし、本人の言葉をひとまとめにした『フレディ・マーキュリー ア・ライフ、イン・ヒズ・オウン・ワーズ』はおさえておきたい一冊。大量の写真と共にバンドの活動を追った『クイーン 華麗なる世界』は絢爛豪華なクイーン図鑑といった趣で、『MUSIC LIFE』誌の記事を復刻した『ミュージック・ライフが見たクイーン』は当時の空気をそのままに伝えている。 このような資料が世に溢れる中、米原範彦著『フレディ・マーキュリー解体新書』は如何なる独立性を持つのか。著者の米原は一九六四年生まれの元朝日新聞記者である。映画『ボヘミアン・ラプソディ』を一〇回も観たという米原は同映画で主演を務めたラミ・マレックにもインタビューを行っており、本書にはその際の貴重な裏話も収められている。また一九九一年一一月、若き米原がフレディの訃報を伝える新聞記事の小ささに衝撃を受け、各紙の扱いを比較する場面は、具体例をもって当時の空気をうかがえる重要な資料として読めるだろう。 本書のひとつの特徴として、著者がレコード会社や音楽雑誌出身のライターではないことが挙げられる。米原はフレディ本人と対話したことが無く、それゆえ本書の情報はほとんどが二次的なものである。旧来のファンの目が見ればフレディとクイーン、その周辺人物についての目新しい情報はほとんど無い。しかしフレディやバンドを取り巻く社会・政治の状況にスポットを当て、〝アーティストの歩んだ時代〟を描いた書籍は存外に少なく、それでいて鷹揚な文体の端々にいちファンとしての純粋な好意と執筆の喜びが溢れ出る様子は大変に親しみが持てる。 著者の思想には「アーティストが見たもの・触れたもの全てが楽曲に影響する」というものがあるようで、それを読み手にも伝えるためか、情報の合間には時代や場所のイメージが華やかな語彙によって綴られている。これは本書の大きな個性であり、紀行文の如く流麗で緻密なそれらは、かつてフレディが歩いた道の土埃や香辛料の匂い、幼い耳が微かに拾った音を届けてくれる。 中盤では「フレディ・マーキュリーのヴォーカルは何が凄いのか」が語られる。評価基準を〝音域〟の一点に絞って客観的な批評を行う試みは、提唱したひとつの理屈の中においては説得力あるものと言えるだろう。また、評論において〝上昇幅〟、つまり「同じ絵を描くならばインクで描いたものより醤油で描いたものの方が作品と画材の間に〝上昇幅〟があり評価されやすい」といった新機軸は感覚的にも納得できる。 一方、著者自身も本文内で認めているように、注釈不足や強い主観による不用意な断定、情報誤認と思しき部分など疑問に思う所は存在する。たとえば本文内には「ジョン・ディーコンはバック以外では歌わない」とあるが、実際はライブ中に演奏がてら口ずさむメロディがマイクに拾われる程度である。 ごく個人的な感想としては、「そうだなあ」が七割、「そうかなあ?」が三割。芸術に関して言えば、それが丁度いい塩梅だろう。楽曲解釈の違いはフレディ・マーキュリーの多面性ある音楽をどの角度から見ているかの違いに過ぎず、むしろ世代や価値観が異なる著者との見解の相違は当然のもの。そもそもフレディは誰もが同じ解釈をするような音楽など作っていない筈である。 ひょっとしたら六本木の映画館のナイトショーで肩を並べていたかもしれない著者との、三〇〇ページにわたる音楽談義。趣味の合う友人との酒の席から帰路につく想いで本を閉じると、気付けば頭の中にフレディの歌声が響いていた。(あんどう・さやか=音楽ライター)★よねはら・のりひこ=著述家。朝日新聞社で約三〇年間、記者活動を務め、伝統文化、伝統芸能、ロック・ポピュラー音楽、演劇、美術、放送など主に文化的ジャンルを幅広くカバー。二〇二一年に独立し、執筆を続ける。一九六四年生。