繰り返し思索するハイデッガーの姿 丸山文隆 / 東京大学研究員・哲学・現象学 週刊読書人2023年8月18日号 ハイデッガーとギリシア悲劇 著 者:秋富克哉 出版社:京都大学学術出版会 ISBN13:978-4-8140-0477-5 本書はマルティン・ハイデッガーの思索を「ギリシア悲劇」を切り口にして論じる。そこで見えてくるのは、西洋哲学の運命について繰り返し思索するハイデッガーの姿である。 ハイデッガーは常に哲学の原初に立ちもどろうとしてきた。その原初とは、『存在と時間』(一九二七年)に代表される前期の思索においてはプラトンとアリストテレスであったが、一九三〇年代以降の思索ではさらにさかのぼって、いわゆる「ソクラテス以前の哲学者」が集中的な考察の対象になる。そして、原初の思索を求めるなかでアイスキュロスやソポクレスといったソクラテス以前の悲劇作家たちもまた注目されることになる。細かい言語表現を分析することによって、失われた古代的なものの見かたを探ろうとするのだ。 本書は「序」と「結」のほか七章から成る。第一章は「歴史、運命、悲劇」と題されている。『存在と時間』では「運命」は「本来性」と結びついており、哲学史における非本来的な逸脱は運命それ自体から区別されていた。これに対し、近年公刊された『黒表紙のノート』では「存在の問いの忘却」をまさに「哲学の運命」ととらえるあらたな運命概念が登場する。この概念が以下の議論の全体を導く。第二章「アイスキュロス解釈:『縛られたプロメテウス』」。アイスキュロスはプロメテウスを、人間に「技術(テクネー)」を与えるものとして描く。ハイデッガーはここに、運命に対する知(テクネー)の無力を見て取る。第三章「ソポクレス解釈(一):『オイディプス王』」。『オイディプス王』を支配するのは一度も舞台に登場しない不在のアポロン神だ。ハイデッガーはこの劇を「存在と仮象の統一と相克」として理解する。第四章「ソポクレス解釈(二):『アンティゴネ』」。有名な「人間讃歌」において、もっとも家郷的に安住せざるものとしての人間の「無気味さ」が歌われる。ここで暗示されているのは、家郷的ならざること(死)を引き受けることによって家郷的になるアンティゴネの姿である。第五章「ディオニュソスをめぐって」。ヘルダーリンは詩人を神々と人間の媒介者として位置づけており、そのイメージは半神ディオニュソスと重ねられる。第六章「ニーチェにおける『悲劇』」。ハイデッガーは、「悲劇的なもの」を「有るものの究極的な諸対立」の共存・共属として理解する。ニーチェの「永劫回帰思想」はそうした悲劇的なものの最高の定式化である。第七章「存在の問いと『悲劇』:歴史的運命としてのニヒリズム」。一九三〇年代終わりに、存在それ自体を悲劇的とする特異な着想が現れる。それは、「原初が没落の根拠である」ということである。 ハイデッガーによれば、西洋哲学が存在を思索し始めたとき、その原初的思索はすでにして歪曲であり、没落であった。だが後代の私たちは単純にこの原初から離反すればいいというわけではない。「別の原初への移行」を果たすためにはむしろ、古代ギリシアの「本質歪曲を含む存在の原初の深淵へと遡行し、つまり没落しなければならない」(一九九頁)。没落が引き受けられるべき運命であるという意味で、存在は悲劇的なのである。西洋哲学の原初をめぐるハイデッガーのこうした思索はいかにも難解だが、著者の明瞭で親しみやすい文章は一つの描像を与えてくれる。 本書は一般の読者に向けられたものであるが、専門的な論文がもとになっており、研究者にとってはさらに考えるべき論点が多数含まれている。著者はハイデッガーにとってニーチェの位置が「アンビバレント」で複雑であることを強調するが、評者はあらためて、ハイデッガーにとってのニーチェ『悲劇の誕生』の意味について考えてみたく思った。「ソクラテス主義」を体現するエウリピデスにおいて「悲劇の死」が生じたと断じるニーチェの歴史観は、西洋哲学の原初をめぐるハイデッガーの思想をどこまで深く規定しているのだろうか。(まるやま・ふみたか=東京大学研究員・哲学・現象学)★あきとみ・かつや=京都工芸繊維大学教授・哲学。京都大学大学院博士後期課程研究指導認定退学。著書に『原初から/への思索』など。一九六二年生。