分厚い壁に風穴を開けた企画記事 西口想/ 文筆家 週刊読書人2023年8月25日号 明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記 著 者:平山亜佐子 出版社:左右社 ISBN13:978-4-86528-373-0 日本に現在あるような日刊の新聞が生まれたのは、年号が「明治」に変わった約一五〇年前。当初、記者職は男性に限られていたが、西暦一九〇〇年前後から女性が男性職場に「社会進出」を始めた。新聞社にも続々と女性記者が入社するようになる。本書はまず、その「婦人記者」の黎明期に注目し、丁寧な考証によって、当時活躍した婦人記者たちの人となりや時代背景、取材・執筆をめぐる現場に迫っていく。 それだけでも歴史・職業研究として意義のある本だが、本書が特異なのは「化け込み」という一連の企画記事に光をあてたところだ。化け込み記事とは、記者自身が変装して様々な場所に入り込み、そこで起こっている内実を具にすっぱ抜く企画とのこと。 「化け込み」という言葉がすでに死語になった現在、素性を隠して行われる同様の取材方法は「潜入取材」と呼ばれているだろうか。評者は労働問題が専門であることもあり、近年話題になった潜入取材として横田増生『ユニクロ潜入一年』などが思い浮かぶ。 本書によれば、そうした潜入ルポルタージュは、欧米ジャーナリズムの影響を受け、明治二〇年代から男性記者が行っていた。明治時代の男性記者たちは、都市下層社会で日雇い労働者や香具師、屑屋などに扮し、いわゆる「スラムルポ」を書くことで社会の不平等さを問うていたという。 一方、本書が着目する婦人記者による化け込み記事の場合、女給や奉公人に化けてカフェーや個人宅に潜入する。社会派のスラムルポに比べ、エンタメ色の強い「飛び道具的な企画」だった。今よりも性別職務分離が厳格で、男性と女性で行き来できる社会・場所が明確に区分されていた時代。新聞社内でも、婦人記者には家事・家政に関する記事やファッション読み物などしか回ってこない。そうした分厚い壁に風穴を開けたのが化け込み企画だったのだ。 第一章で詳細に語られるのは、日本にセンセーションを巻き起こした婦人記者、「大阪時事新報」の下山京子についてである。一八八九年頃に現在の東京・新宿区で生まれた京子は、一九〇六年三月に大阪時事新報に入社し、一九〇七年一〇月に最初の化け込み記事、「婦人行商日記 中京の家庭」の連載を始める。輸入雑貨の行商人として上流階級の家庭や事務所、花柳界などを訪問し、そこで生活する人々の様子を鋭い観察眼でとらえ、悪態・醜聞も含めて容赦なく描写した。 翌年には化け込み第二弾、「鬼が出るか蛇が出るか 記者探偵 兵庫常盤花壇」を開始。今でいう高級クラブのような神戸の料亭「常磐花壇」に仲居として潜入するまでのプロセス、朝八時から午前三時頃まで続く仲居の過酷な労働、上客や芸者たちの様子をレポートした。当時十代終わりだった下山京子の仕掛けた企画は大当たりし、新聞の売り上げを倍増させ、他紙も追随する化け込みブームを起こしたという。 「化け込み」の後継者たる中平文子(中央新聞)、北村兼子(大阪朝日新聞)、小川好子(読売新聞)らはみ出し者の婦人記者たちの苦闘は、ぜひ本書で読んでほしい。なかでもアンチと毅然とたたかった天才・北村兼子の数奇な人生は面白過ぎるので、Netflixなどで今すぐ映像化すべきだと思った。 本書のもうひとつの読みどころは、一〇〇頁弱ある「番外編 化け込み記事から見る職業図鑑」である。電話消毒婦、女中奉公、百貨店裁縫部、女優養成所など、化け込み取材の対象とされた一九三〇年代頃までの女性職場を、記事のエピソードをもとに紹介する。 ジャーナリズム界で周縁化された婦人記者だからこそ、いまではほとんど知られざる職場へ化け込み、具体的な労働環境から先輩の小言、その日のランチのメニューまでを記事に残すことができたのだろう。そのテキストの社会的価値と普遍的な面白さを見出し、膨大な資料を蒐集して一〇〇年後の私たちに届けた著者に敬意を表したい。 最後に個人的な感想になるが、一九七〇年代に新聞記者になった母の息子(私)としても、彼女たちのかき分けた茨道が足元までつながっていることに深い感銘を受けた。(にしぐち・そう=文筆家)★ひらやま・あさこ=文筆家・挿話収集家。著者に『20世紀破天荒セレブ』『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』『問題の女本荘幽蘭伝』など。