被災地における生活再建の営み 辛承理 / 一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程二年・地球社会研究 週刊読書人2023年8月25日号 原発災害と生活再建の社会学 なぜ何も作らない農地を手入れするのか 著 者:庄司貴俊 出版社:春風社 ISBN13:978-4-86110-861-7 農地にかぎらず、花壇や菜園など、土いじり体験のある人であれば、労力が報われる瞬間は一瞬であり、すぐにまた草がはびこり、同じ過程を繰り返さなければいけないことがわかるだろう。しかし、それでも土へ働きかけつづけるのは、収穫する楽しみ、外観を維持することの満足感など、明確な「目的」があるからである。 しかし、そうした目的はなくても土地へ働きかけつづける人びとがいる。本書で紹介される「元農家」は原発被害によって「移住制限や生産制限といった不条理に直面」しており、避難生活から故郷へ戻ったあとに再び農家になることを断念した人びとである。本書では、それにも拘わらず「農地に手を入れつづける」営みに着目し、人びとが災害からの「生活再建」をいかに試みているか、その論理をあきらかにしている。 本書は序章と終章を含む七章から構成されており、最後には原発事故直後、避難生活から故郷へ戻り生活を営む住民の行動を詳細に記述した補遺の三編で構成される。 序章から第二章では、本書の目的を読者に紹介するとともに、著者が「被災地に暮らす人びと」にとっての「日常」、なかでも「農地との関わり」に注目する理由を述べる。第三章と第四章は、著者がおこなってきたフィールドワークをもとに、被災者が原発事故によって失った「予見」を取り戻すために営む行為(=農地と関わり続けること)を分析し、元農家にとって農地の手入れは生産活動の可否だけでは語ることのできない、集落の人びととの社会関係や当事者性を担保することにつながる行為であることをあきらかにしている。第五章と終章では、元農家が農地に手入れをしつづけることで、故郷での生活を再建し、将来を「予見」していくことを可能とする論理を提示している。 元農家にとって農地は生産の場でもなければ、すべての手入れを諦めた荒地でもない。本書いわく、それは「消滅と存続、そのどちらにも属していない状態、いわば中間の状態」である。なぜ、この「中間」を維持することが可能なのかという疑問から出発する本書は、被災から生活を再建するために主体的に選択した行為として「農地の手入れ」を解釈している。 農業問題に着目する諸学問では農家の生産へ着目し、農地の手入れを生産に付随する行為として議論することが少なくない。そのために、東日本大震災による農林水産業の被災も、生産の再開・復活を復旧・復興と位置付けている。しかし、本書における元農家の営みをみると、農と関わる生活から「原発被災地となった地域で、再び暮らしを立て直す」ための力を得ている。このような事実から農の営みが持つ意義や、農業の多面的機能について考えさせられる。 また、これまでの災害研究において故郷は「『元に戻る/元に戻らない』という二元論」から語られてきた。しかし、「戻る」とは言え、目に見える形の実害でない、「間接的に生じる実害」のなかに生きる人びとは「『元に戻ること』/『元に戻らないこと』の『中間』」で日常を生きていくことになる。本書を完読する頃には、その「中間」を生きる人びとの行為に見られる規則性(=農地の手入れ)が単純なことではなく、潜在的価値を有する行為であることが理解できるはずである。 本書は著者が二〇一四年から継続的に実施したフィールドワークとインタビューの成果が詳細に記述されている。対象地との偶然な出会いから、フィールドワークを重ねていく過程で具体化されていく問い、そして住民の行為と声から著者がいかに問題を設定し、試行していったのかを理解することができる。このような研究の舞台裏を覗くことによって、わたしたちは、学術的な問いが構築される過程のみならず、フィールドワークの意義を理解することができる。 著者が補遺③「本研究の課題と今後の展望」で指摘するように、わたしたちは「原発を否定しても、〝原発を即座に取り除くことはできない〟」状況に生きている。本書を読了する頃には、原発事故における構造的暴力を直視しながらも「原子力災害との向き合い方」、「原子力施設との共存のあり方」について思考しつづけていく必要を感じることができよう。(しん・すんり=一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程二年・地球社会研究)★しょうじ・たかとし=東北学院大学非常勤講師・災害社会学。主な論文に「原発被災地で〈住民になる〉論理」など。一九九一年生。