――資本主義の〈その前〉も―― 大黒弘慈 / 京都大学教授・経済理論・経済思想史 週刊読書人2023年8月25日号 資本主義の〈その先〉へ 著 者:大澤真幸 出版社:筑摩書房 ISBN13:978-4-480-86743-8 資本主義の「普遍性」 資本主義の〈その先〉を展望するためには、資本主義が自己否定に至るまでにその根源的な条件を徹底的に肯定し、内在的に乗り越えるほかない。そのために安易な「変革」ではなく「解釈」に徹することを大澤は選ぶ。それは常識に反して資本主義の中核的条件が経済的な物質過程ではなく観念的な力や言説のレベルにあり、それが資本主義の包括性を可能にしているからだ。終わるかもしれないという危機意識と、その危機を回避するための延命措置のイタチごっこ(自らの終わりに対する両義的な感覚)が資本主義の本質だとするなら、終わりの〈その先〉を容易に展望できないほどの包括性をもつ資本主義を、まずは、その最大限の広がりにおいて捉え、解釈すること。それが資本主義の部分を否定してより悲惨なシステムをもたらしてしまった二〇世紀の歴史を繰り返さないための鍵だ。 その最大限の広がりの中には、近代的主権権力(絶対主義)が可能にする近代小説や近代科学も含まれる。しかしその根底には予定説にもっとも顕著に現れるような終末論的な時間感覚があり、不安と確信をともにもたらす超越論的第三者の審級がある。この第三者の審級の抽象性(不可視性)こそが剰余権力や剰余知識、そしてそもそも剰余価値を生む母体である。この基本的構想は前著『〈世界史〉の哲学 近代篇1:〈主体〉の誕生』においても強調されていたが、本書においてはそれが精緻化されるだけでなく、平易に説かれていてたいへん読みやすい。プロレタリアートの〈普遍性〉へ しかし本書の白眉は何といっても、前著においては示唆されるにとどまっていた資本主義から抜け出す回路を、本格的に追究した最終章「〈その先〉へ」である。前著で示唆されていた脱出の回路は「第三者の審級を根底から否定」し、また構造そのものの中に孕まれていた歴史性を抉り出して登場人物自身が「歴史認識の更新」を図ること、というものであった。それを本書は、召命の廃棄という形でしか召命に応じるほかない内部のプロレタリアが「階級自体を否定する可能性」という論点に絞り込み、この方向性をとことんまで追究している。 産業資本主義がイノベーションを繰り返し、現在と未来の価値体系の時間的差異の媒介によって剰余価値を生むことに典型的に見られるように、資本主義は「経験可能領域」を次第に包括化・普遍化してゆくダイナミズムにほかならない。しかしそれはついに真の〈普遍性〉には到達しない。資本が未来を先取りしようとする際の「普遍性」は内と外の区別に基づいた排除を前提に成り立つのに対し、階級そのものの廃棄を目指す階級闘争こそは、科学や小説の無限への衝動にも支えられて、真の〈普遍性〉の実現を目指しうるというのだ。 大澤はその際、師・見田宗介=真木悠介の〈交響するコミューン・の・自由な連合〉という社会構想によりながら、資本主義が生み出す中立的ルールの幻想を斥けてルール圏に固有の相克性を相乗性へと転換する道を探り当てる。それは、やはり見田が夙に指摘していたように、近代資本主義が「標準のもの」によって土着のものを風化させてしまったのとは逆に、個の特異性を際立たせる母体「共通のもの」を打ち立てるという道にほかならない。それこそが資本主義の疑似的「普遍性」とは異なる真の〈普遍性〉だというのだ。 その究極の実例が意外にも中村哲とペシャワール会に見出される。外部者中村がアフガニスタンの共同体に徹底的に内在しえたように、すべての共同体が孕む内的葛藤を媒介にした連帯こそが、資本主義の閉じた「普遍性」を超える開かれた真の〈普遍性〉をもたらす。それはまたプロレタリアートたちの連帯でもありうる。それを特異な例外と突き放すのではなく、一本の太い線をわずかながら補うことで地球規模の連帯は十分可能である。難解な数学理論を援用しながら、それと最も折り合いの悪そうな中村らの活動の意義を浮かび上がらせる手並みは、相変わらず見事というほかない。普遍性より共通性を 大澤は注意深くも、ある程度の物象化=疎外は自由に不可欠の条件である以上、過剰に赴かない程度の物象化=疎外の適切性をチェックするのがコミュニズムにおける〈普遍性〉の役割だともいう。しかし近代資本主義に固有の疎外は、そうした「Xからの疎外」ではなく、価値・役割・意味などの「普遍性をめざす競争」から人々が降りることができない「Xへの疎外」(真木)にあるのだとするなら、真の〈普遍性〉はこの「Xへの疎外」をこそ斥けなければならないはずだ。いや、剰余や無限へと駆り立てる普遍性ではなく、有限にもとづいた共通性(類似性)こそが資本主義の〈その先〉への鍵となるのではないだろうか。 前著で示唆された資本主義から抜け出す回路の中には、『紋切型辞典』のような小説の極限へと向かう運動から距離をとり、そこから小説を解放するような『トリストラム・シャンディ』のような魅力的な事例も含まれていた。それは表象のエピステーメーを過剰に徹底させることで中世・ルネサンスの「類似のエピステーメーに逆戻りする」(表象の時代を入り口から出る)可能性とも言い換えられていたが、本書ではその方向性は禁欲されている(拙評「宗教としての資本主義を『入り口から出る』:『人間の終焉』後の人間のために」週刊読書人、二〇二一年七月一六日号参照)。 本書は大澤資本主義論の決定版であり、たしかに「最高到達点」といってよい。しかし評者はさらに「その先」を読みたい。その向かう先は意外にも、資本主義の〈その前〉に遡行すること、いや〈その前〉を高次元で回復することではないだろうか?(だいこく・こうじ=京都大学教授・経済理論・経済思想史)★おおさわ・まさち=社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。著書に『ナショナリズムの由来』『自由という牢獄』『不可能性の時代』『社会学史』など。一九五八年生。