なにかに定められようとする「私」から離れるための 大塚真祐子 / 書店員 週刊読書人2023年9月1日号 今日の花を摘む 著 者:田中兆子 出版社:双葉社 ISBN13:978-4-575-24638-4 男性との肉体的な交接をともなうかりそめの恋愛を、草野愉里子は「花摘み」と呼び自らの趣味としている。「花摘み」をするようになったのは三十代あたり、結婚歴はなく結婚願望は昔も今もほぼない。ひとりで暮らす2DKのマンションはローンを完済したばかりで、故郷の金沢には認知症気味の母と八十過ぎの父、近所で両親を見守る妹がいる。都内の中堅出版社に勤務し、休日はまめに横須賀の素封家の邸宅を訪ね、茶会の手伝いをする。幸薄そうと言われる造作の小さな顔立ちをした五十一歳の女性、というのが今作の語り手である愉里子の人となりだが、これらの情報から類推される物語のあらましや作品のイメージは、中盤からことごとく覆される。 「女による女のためのR―18文学賞」大賞を受賞し世に出た著者は、これまでも中高年の性愛を題材に多くの小説を著しているが、今作では肉体の老いと、老いにともないあらたに露になるセックスの問題を正面から描く。性交痛など閉経前後の女性に生じやすい苦痛とその対処法や、前立腺を全摘出した場合に機能回復のためのどのような選択肢があるかなど、表だってされることの少ない性的な対話が、魅力的な登場人物たちによって淡々と率直に交わされる。この明瞭さは〈あれこれと駆け引きするより自分の気持ちをはっきり伝えるのが好き〉な愉里子のキャラクターによるところも大きいだろう。 そんな愉里子の「花摘み」の意味が、中盤の叙述で変化する。あけすけなふるまいが女としての慎みに欠けることを自覚しながら、愉里子がそうしないでおれないのはなぜか。 〈なぜなら、これからの人生、今日が一番若く、残り時間はそう多くない。ローマの詩人のホラーティウスも言っている。/――今日一日の花を摘み取ることだ。明日が来るなんてちっともあてにはできないのだから。〉 この小説の題名が彼女の趣味を指すだけでなく、古代ローマ詩人の詩句からとられていることが示され、今日の花を摘め=いまこのときを大切に、というホラーティウスの教えが愉里子の生き方の根元にあることを伝えると、物語は大きく舵を切る。趣味としての「花摘み」はこのあとほとんど登場せず、愉里子は変化する自分の体と性欲に向き合いながら、自身の恋愛と親の介護、会社で発生するセクハラなどの問題に対峙する。 セクハラ告発のくだりは、ハラスメントを容認することで会社員としての立場を確保してきた女性たちの葛藤が、同期の出世頭であるモリジュンこと森潤子と、愉里子の告発直前のやりとりに凝縮され目を瞠るが、小説前半に描かれた「花摘み」を語る愉里子との温度差に面食らったことも確かで、そこで愉里子がなぜこれほどセックスを求めるのか、と自問した際の漠然とした考察を思い出した。愉里子はモテたいわけではなく、好みの男性とセックスをしてみたいだけであり、〈セックスをしているとき、私は私から離れることができて、それが気持ちいいということである。日々の生活で、私は私でいることに疲れているのかもしれない〉と述懐するのだ。 「花摘み」と、セクハラ告発のために奔走する愉里子は矛盾していない。どちらの愉里子も多様なやり方で、気づくとなにかに定められようとする「私」から、離れることを求めている。ともすれば定められ、名づけられやすい「私」が「私」であることからの離れ方を、愉里子のみならず物語全体がその大きなうねりとともに、示しているように感じた。 伝統的な茶の湯の空間が、愉里子にとって「私」を消し空っぽになれる場としてしばしば登場し、作品の軸になっていることも興味深い。愉里子のなかではセックスと茶道が似た役割を果たしている。素封家の万江島氏の茶室で紹介される、床にかけられた佐野洋子の絵と谷川俊太郎の詩集『はだか』の一節など、ときおりあらわれる名作の引用も印象的で、細部の美が粛然と物語を支えている。(おおつか・まゆこ=書店員)★たなか・ちょうこ=作家。短編「べしみ」で「女による女のためのR―18文学賞」大賞受賞。著書に『甘いお菓子は食べません』『徴産制』(Sense of Gender賞大賞)『劇団42歳♂』『私のことならほっといて』『あとを継ぐひと』など。一九六四年生。