個の精神が誕生するさまを描く哲学的ドラマ 渡辺一樹 / 東京大学人文社会系研究科博士課程・道徳哲学 週刊読書人2023年9月1日号 いかにして個となるべきか? 群衆・身体・倫理 著 者:船木亨 出版社:勁草書房 ISBN13:978-4-326-15486-9 広義の倫理学には、ふたつの役割があるように思われる。ひとつには、倫理の営みを理解すること、つまり、倫理とは何であるか、その真理を語ろうとすることである。いまひとつには、生の技術を与えること、つまり、かく理解された倫理のなかでいかに生きていくか、生の技術を思考させることである。本書は、このふたつのどちらをも果たそうとする、著者の倫理学の巨大な「到達点」(二七四頁)である。倫理の営みを理解するにあたり、本書の基本的なアイディアは明快である。すなわち、倫理とは群れのなかで共存するためのマナーにほかならない(第二章)。マナーこそが倫理の基礎にあるのであって、規範や正義といった従来の倫理学の主題は、その特殊形態――マナーのうちで厳格にルール化されたもの――に過ぎない。群れの多数派を共存させるマナーとしての倫理には、かくして、合理的な基礎はなく(八九頁)、そこに神や法の権威を持ち出す基礎づけは宗教的・政治的なイデオロギーでしかない(九一頁)。 本書のアイディアは、その結論部だけを述べてしまえば、倫理の神聖さを信じる人びとにとっては、露悪趣味のシニシズムに聞こえるかもしれない。あるいは、本質的な「群れ社会」であるところの日本に特殊の倫理学に過ぎないのではないか、と訝しがる読者もあるかもしれない。本書はしかし、真正の哲学書として、多くの道を迂回しながらも(例えば、倫理を説明する第二章は味覚の議論とともにはじまる)、周到な論証をおこなっている。すなわち、趣味や欲望といったきわめて個人的な感性のように思われることがらから、ルールや正義といった客観的と思われることがらまで、それらが群れの(間身体的な)マナーの産物であることを示す。著者じしんは、この思考を和辻倫理学に類するとするものの、ここでの「マナー」を「生活形式」と言い換えれば、これはまた、後期ウィトゲンシュタインの思考とも響き合っているだろう。かくして本書は、透徹したリアリズムに支えられた、文化横断的な洞察をもたらす倫理学である。 こうした前提のうえで、徹底した真剣さをもって著者が問うのは、「いかにして個となるべきか」である。「生きるとは何なのか。マナーに反すること、あるいは語義矛盾であるが、「自分だけのマナー」もつこと――なぜひとはそのようなことを思いつくのか。なぜみずからに個を作ろうとするのか」(一二三頁)。群れとそのマナーがどこまでも倫理の基礎なのだとすれば、群れのマナーと対決する個の理想は、謎として残されるからである。著者は「本書を、そうしたみずから道を求めるひととともに考えたくて書いた」(一二九頁)。本書はここから、「個であるとは何か」、「身体とは何か」、「欲望とは何か」、「思考とは何か」という形而上学へとふかく沈潜していく。これは、群れのなかからそれと対決する個の精神が誕生するさまを描く哲学的ドラマであり、著者が個として蓄積してきた確率論・思考論に彩られた精神現象学である。 評者は、本書によってひとつの問いへと誘われた。すなわち、群れからそれと対決する個が生まれたあとで、その個があらたに群れなすことをどのように考えるのか。孤立を恐れぬ個は、ときとして、連帯を求める。群れと対決する個たちが連るむ(つるむ)ということが重要になりうる。あるいは、そもそも、群れと真に対決する個となるために、連るむ必要があるかもしれない。一匹狼は、ひとりでは群れのはぐれ者に過ぎないかもしれないが、仲間と連るむことで、もとの群れを破壊するほんとうの脅威たりうる。本書は「生の哲学」の系譜に位置づけられているが(二六二頁)、日本において生の哲学の思考を紡いだ大杉栄も、同様の問いへと至っていた。他人によって本質的に規定される自我を棄脱して、渇望の矢となる真の自我を育てるには、「団結と反逆」が必要になると大杉は考えた(「生の創造」)。いずれにせよ、本書が突きつける問い、それが誘う問いは、評者を鋭く突き刺した。(わたなべ・かずき=東京大学人文社会系研究科博士課程・道徳哲学)★ふなき・とおる=専修大学名誉教授・フランス現代哲学。著書に『死の病と生の哲学』など。一九五二年生。