「能動的不正義」と「受動的不正義」 福間聡 / 高崎経済大学教授・社会哲学・倫理学 週刊読書人2023年9月1日号 不正義とは何か 著 者:ジュディス・シュクラー 出版社:岩波書店 ISBN13:978-4-00-061596-9 本書『不正義とは何か』はジュディス・シュクラーの三つ目の翻訳書である。題名からも分かるように本書でシュクラーは、歴史的な考察を踏まえて、現在の社会(とりわけアメリカ合衆国)における不正義の様々な様相について検討を行っている。しかしながらアメリカと日本で共通する不正義(ジェンダー、人種差別、DV、災害、等)は多数存在し、その歴史的・文化的な背景は異なることがあるにせよ、本書から学べることは多い。 正義ではなく、不正義に焦点を置く政治理論は、アマルティア・センの「比較アプローチ」やアイリス・ヤングの「構造的不正義」といった類型が存在する。しかしながらシュクラーによる不正義の探求において特徴的なのは、「不正義の被害を受けた者の魂にくすぶる不正義の感覚」に徹頭徹尾寄り添っている点にある。私たちの誰もが「不正義の感覚」を持っているということが民主主義的なエートスの前提であり、自分は不当に扱われたと訴えるひとの声は民主主義的な原理の問題として、沈黙させられることがあってはならない、とシュクラーは唱えている。そして不正義を「能動的不正義」と「受動的不正義」とに区別し、不正義が蔓延するのは、正義のルールが能動的に不正な人々によって日常的に侵害されているからだけではなく、実際の不正義の被害者に背を向ける受動的な市民も不正義の総量に荷担していると断じる。この、実際に不正義を犯しているものだけでなく、不正義を見過ごしているものも不正義に荷担しているという立場は、センやヤングと共通するが、シュクラーに独自であるのは、この受動的不正義はいかなる特定の道徳哲学にも依拠しておらず、立憲民主主義におけるシチズンシップ(市民であること)と結びついた概念であるという主張である。シュクラーにあって受動的不正義とは、権利や責任を有する市民が、お互いに対する期待に適った仕方で政治的に振る舞うという義務の遂行を怠ることを意味している。すなわち、受動的に不正義である人間とは、自分の周りで起きていることにひたすら無関心であり、他の市民が違法な行為や犯罪、詐欺や暴力の被害者となっていても、ただ背を向ける人間である。そしてもし公職者がそうした人間であるならば、その害悪は深刻となる。不正なひととは、自分の身近に蔓延する不正義に対して目を閉ざす人々である、とシュクラーは述べている。したがって能動的不正義は(通常モデルの分配的)正義の裏面ではあるが、この受動的不正義は正義の通常モデルでは把捉できない対象なのである。 では我々が事故や災難などから被害を受ける場合、それは不運だったのだろうか、それとも不正義であるのだろうか。災害による被害者の苦しみが、公的機関によって改善することのできる類いのものであるならば、被害者を助けるために何も行わないことは不正義にあたるとシュクラーは述べている。不正義である理由は、民主的な公的機関に対する市民の当然の期待がないがしろにされたからであり、被害者は不正義の感覚を抱くことが必至とされる。不運と不正とを一般的な仕方で区分することはできず、どのような災難であれ、被害者の視点を十分に考慮し、その声に十分に重みを与えない限りは、私たちの決定は不正なものとなり、さらには政治的に危険なものともなるとシュクラーは結論づけている。シュクラーの理論に照らすならば、人々が不正義の感覚を抱く生まれによる能力、財、機会の格差は、運・不運の問題ではなく、民主的な公的機関にその是正を市民が正当に期待しうる不正義とみなしうる。こうしたシュクラーによる不正義への取り組みは正義の通常モデルと相補的であり、理想理論としての後者があるからこそ、非理想理論としての前者が精彩を放っている。 本書は訳者たちによる補足が極めて多く、読解に際して、訳者たちの解釈を読者に精確に理解してもらいたいという心慮を見て取ることができる。ニューラル機械翻訳の発達は目覚ましいが、機械では訳出することができない翻訳のあり方が本書にはある。今後の翻訳書のあり方の範例になると思われる。(川上洋平・沼尾惠・松元雅和訳)(ふくま ・さとし=高崎経済大学教授・社会哲学・倫理学)★ジュディス・シュクラー(一九二八―九二)=ハーバード大学で長らく教授を務める。著書に『ユートピア以後』など。