熊楠の生涯を理解するための見取り図を提供する 松居竜五 / 龍谷大学教授・南方熊楠研究 週刊読書人2023年9月8日号 未完の天才 南方熊楠 著 者:志村真幸 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-532636-7 この三十年くらいの間の南方熊楠の研究は、かなりユニークなかたちで進展してきた。 まず一九九二年から、和歌山県田辺市の旧邸の蔵に初めて学術的な調査を目的としたチームが入ることとなり、それまで知られていなかった膨大な量の蔵書、ノート、書簡・来簡などの内容が明らかになった。それを受けて、二〇〇六年に旧邸隣地に南方熊楠顕彰館が開館し、これらの一次資料が一般に公開されることとなった。そして二〇一五年に南方熊楠研究会が組織され、会誌の『熊楠研究』を中心として研究成果の発信がおこなわれてきた。 ただし問題は、その結果として、調査に関わってきた「コアな」研究者と一般読者の間の南方熊楠に関する知識に、かなり深刻な乖離が生じてしまったことだ。二〇二三年時点の会員数が六〇名あまりの研究会メンバーと、その周辺にいる人たちには、すでに新しい資料に基づく熊楠像が受け入れられ、定着した。今日では、過去の多くの「熊楠伝説」が事実と反するものであったことがわかった一方、もっと重要で注目すべき面があることも見えてきている。しかし、一般の読者には一九九〇年代以前の熊楠のイメージが、今でも流通していると言えるだろう。 本書の大きな意義は、この溝を埋めようとしていることにある。志村氏は、上記の南方熊楠邸の調査と研究に初期の頃から最年少の若手として参加し、現在では研究会の中核を担う世代の研究者である。本書には、全体の研究会だけでなく、抜書や日記や英文資料についての有志による研究グループの成果がふんだんに活かされている。熊楠の言葉の引用が現代語訳されていたり、読者との問答形式で話が進んだり、志村氏の筆致はなかなかに軽妙である。 特に、熊楠の活動を全体としてとらえようとしている点が印象的で、たとえば、膨大な情報のインプットに比べて、論文などでのアウトプットが少なかったことを、量的に示してくれている。英語、漢文、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語について、それぞれ程度の差はあるが習得していたことを論じる一方、その他の外国語の学習については、実は本格的なものではなかったことを記す。また当初は植物学者を目指した熊楠がロンドン滞在期に、東洋学関係の文献学にいったん「転身」したことなど、熊楠の生涯を大づかみに理解するための見取り図を、いくつも提供してくれていると言えるだろう。 その結果として、本書で一貫して示されているのが「未完」という考え方である。植物学や民俗学の領域で、熊楠が残した業績自体はそれほど多くはない。しかし、熊楠は最晩年の日記に見られる自分が見た夢の記録にいたるまで、この世のありとあらゆる現象についての考察を生涯にわたって続けた。そこには、著作などの完成品を志向しない学問のあり方が実践されていたのではないかというのが、志村氏の論点である。 書評者は、基本的にはこの志村氏の見方に賛成なのだが、やや懸念もある。熊楠の「未完」と呼んでしまうと、それは現在の時点から、熊楠の活動をすでに終わったものとして固定化して見ることにつながってしまうのではないだろうか。熊楠の残した軌跡は、結果として未完と見えるだけで、その時々では現在進行形のものだったはずである。それを「未完」という言葉で片付けると、熊楠の生きた思考の流れが持っていたダイナミズムが消えてしまう。 そのことは、単に表題の問題にとどまらず、志村氏の記述のスタンスにも現れている。本書の各項目の内容は非常にバランス良く配置されているのだが、どこか熊楠が生の現実として感じていたはずの葛藤や苦悩や悦びが、身近に感じられないように思われる。それは、よく言えば客観的、悪く言えば類型的に、熊楠を過去のものとして淡々と描写する志村氏の姿勢の反映なのではないだろうか。 それをもっとも示しているのが、熊楠の言葉の引用に対する志村氏の現代語訳で、率直に評すると、どれも原文の持つ緊張感に欠け、凡庸な印象を拭えない。ただし、そのあたりは、歴史学者として対象との距離を保とうとする志村氏と、文学研究者としてその内面に肉薄したい書評者の好みのちがいなのかもしれない。実は書評者も現代語訳に基づく熊楠の書籍を準備中なので、その刊行をもって、この舌足らずな書評を補うことができればさいわいである。(まつい・りゅうご=龍谷大学教授・南方熊楠研究)★しむら・まさゆき=南方熊楠顕彰会理事・慶應義塾大学非常勤講師・比較文化研究。著書に『南方熊楠のロンドン』など。一九七七年生。