フランスに異文化=ジャズがどう根をはってゆくか 小沼純一 / 早稲田大学教授・音楽文化論 週刊読書人2023年9月15日号 パリの空の下ジャズは流れる 著 者:宇田川悟 出版社:晶文社 ISBN13:978-4-7949-7369-6 フランスとジャズ、は正面から語られてこなかった。ジャズが好き、フランス文化が好き、というひとはそれぞれにいる。ここに映画の軸を足すと、すこしまた違ってくるかもしれないが、なかなか、どうして交差しなかったりもする。 本書はフランスとジャズとのつながりをたどる通史をめざさない。フランス・ジャズ史ではない。ジョセフィン・ベイカー、ボリス・ヴィアン、ジャンゴ・ラインハルト、実存主義……それぞれの局面で言及されるひとやことを、固有名を中心に、もうすこしズームし、掘り下げる。部分的に知られていることはある。でも、フランス/ジャズの切り口のもとにならべられ、一冊になっていることはないから、新しい発見がある。 扱われるのは二〇世紀はじめから一九六〇年代くらい。極東の列島で、フランスもジャズも、ある重要なものとみられていた時期とかさなる。芸術音楽、映画、文学、そうした作品や携わる人たちとジャズとのかかわり。アーティストたちにとっては、ときに新しく珍奇な、ときに風俗的な、いまふうの言いかたをすればサブカルチャーだったかもしれないジャズ、そこをみる。著者はそんなことをおくびにもださないが、つまりは、いまわたしたちのまわりで起こったり消えたりする流行と同質のものが透けてくる。いまのもろもろの現象が将来的に――将来があるとすれば――ふりかえってとらえられもするだろうことを予感する。 アメリカ合衆国から飛来したジャズの種子は、ヨーロッパの土壌で発芽し、異なった環境で新しい花や実をつける。わたしはそのようにみているが、本書では故意に、アメリカとのつながりがまだつよくのこっているフランスのジャズを中心にする。つまりは、フランスにとっての異文化=ジャズがどう根をはってゆくか。そこに重心がある。 一九七〇年代以降だってフランスはあるし、ジャズもある。フランスでは、しかし、一九六〇―七〇年代以降、それまで表にはみえにくかったもの、燻っていたものが噴出してくる。近代の帝国主義、植民地主義のなかでみえなくなっていたものが、だ。クレオール系やマグレブ系の文学がでてくる。旧来の、ヨーロッパ大陸の一部であるフランスの土地で生まれた「フランス文化/文学」とはべつに、いや、併存して重要な位置を占めるようになる。本書で扱われるフランス/ジャズとは入れ替わるようにして。それゆえに、ある意味、ジャズがフランスに、アメリカ由来の海外文化、よその文化ではなくなり、音楽のひとつのかたちとなってからは距離をおく。 ながくパリを拠点に多くの本を発表されている著者である。だから、著者が滞在中に足を運んだライヴやコンサートは多くあるはずだし、そうした生きた体験を本書で記してほしかったと、個人的にはおもう。でもそれは、本書で意図されているのとは異なったものとなるのだろう。そして逆に、もしかすると、本書をフランス/ジャズについての単独のものとして読むより、これまでだされてきた本――食の、ワインの――とあわせて、ならべて、とらえたほうがいいのかもしれない、ともおもう。そのとき、その場から切り離すことのできないナマなもの、という意味で、もともとお得意のフィールドたる食やワインと音楽は、しっかり結びついているからだ。だからこそ、ジャズにじかにはかかわってこない、言い換えれば、もちろんかかわっているのだが、それほどあからさまではないひとやもの、ことがここにはたくさんでてくるし、それがほかの著書ともひびきあって、フランス=文化のかたちをあらわしてゆく。 全体は、序につづいて、三つの大きな部分に分かれる。「ジャズの都パリの誕生」「ジャンゴ・ラインハルトとボリス・ヴィアンのパリ」「パリの空の下ジャズは流れる」。それぞれが時代ごとに明確に分かれているわけではなく、著者とつながりがあるもの――大杉栄、林芙美子、美輪明宏、岡本太郎。モディアノ、サガン、ビュトール。グレコ、ドロン、メセニー、ミンガス――が、挿入されて。そこがまた、読みものとして、おもしろい。 そうか、近年は、やたらと実証的で正しさを求めるあまり、読みものとしてのおもしろさ、ひとの生きているかんじが欠けた本ばかり多いから、本書がたのしく読めるのだ、きっと。(こぬま・じゅんいち=早稲田大学教授・音楽文化論)★うだがわ・さとる=作家。二〇一〇年フランス農事功労章シュヴァリエ受章。著書に『食はフランスに在り』『パリの調理場は戦場だった』『フランス料理は進化する』『欧州メディアの興亡』など。一九四七年生。