語り得る領域の想像以上の広さとは 小島雅史 / 一橋大学大学院社科学研究科博士課程・哲学 週刊読書人2023年9月15日号 欲望という名の音楽 狂気と騒乱の世紀が生んだジャズ 著 者:二階堂尚 出版社:草思社 ISBN13:978-4-7942-2642-6 かつて、音楽評論家の中村とうようは、大衆音楽は周辺で生まれ中心に吸い上げられると述べた。また、多くの人々が交わることで生まれる混交物だとも。本書は、まさにこの定義が示すように、周辺と中心の境で起こる様々な交わりの中でジャズが形成される過程を記した書である。 本書を通読すれば、ジャズを巡って語り得る領域は想像以上に広いと気付かされる。一方で、ジャズの歴史を語る上で外せない都市である横浜やニューオーリンズ、また、ナイトクラブ「モガンボ」での伝説的セッションなど、ジャズファンには馴染みある話題が掘り下げられる。他方で、原爆投下、ケネディ暗殺の影、といった一見縁遠いとも思える話題が、ジャズが生み出す力場の広さを表すように並べられる。その意味で本書は、音楽ファンのみならず、近現代史、都市、芸能といった数々の観点からして刮目すべきフレーズを含んでいる。 それゆえ、本書はジャズの単なる年代記ではなく多様なストーリーの組合せである。この構成が、ジャズをどう読むか、どう聴くかという問いをもたらす。読後には、「近現代米国で育った黒人音楽」という本質を定義した上で、演奏スタイルの変遷を「正史」として語るだけでは、その語りはスクエアに過ぎるとすら思わされる。 確かに、ジャズは米国社会における大衆の、とりわけ黒人の抵抗と苦境を示す音楽に他ならない。例えば、奴隷解放後の黒人が多数移住したシカゴにおいて、多くの黒人演奏家が優れた音楽を創ったことは、米国における黒人の地位を考えれば、それ自体が抵抗の身ぶりだった。また、ドラッグは自身の出自に由来する苦境を一時でも忘れるための手段だった。本書はこれらを明記し、苦境を跳ね返すエネルギーがジャズの中核にあると我々に理解させる。だが、ジャズの「業」はもっと深く広い射程を持ち、それは人種のみならず、民族、時代、場所を容易に越えてしまう。 それが分かるのは、例えばカポネらジャズに不可欠な顔役の活躍を巡る本書での記述である。ジャズが音楽である以上、演奏する場所の確保が不可欠だが、それには強力な顔役が必要となる。その代表格がカポネたちだ。彼らのジャズや黒人への共感は、彼らもまたイタリア系、ユダヤ系など差別を受ける出自であったことに由来する。また、第一次大戦の反ドイツ感情が飲酒文化の締め上げ=禁酒法に直結し、それがギャングに活動の余地を与えていた。「トランペットの『歌わせ方』をシナトラから学んだ」(二三七頁)マイルスの存在は、人種や国籍を跨ぐインターナショナルなものとしてのジャズの象徴であろう。 以上のようなジャズの越境的・混交的な性質は、日本音楽界の面々の生き方にも強く影響を与えた。米国に「本物」を求める者(秋吉敏子)、「ヒップネスと強靭な大衆性」(一四四頁)を体現する者(クレージーキャッツ)など、多様な演奏家の経歴はジャズが国境を超え、各自の目指す表現方法をも含み込むことを明らかにする。加えて、日本最大の顔役の支えを得た美空ひばりが、自分自身を日本の地べたの民衆に届けようとする欲求ゆえに反ジャズ的側面を持つことすら、ジャズ自体の猥雑さによって成り立つように思える。 そしてその猥雑さのために、ジャズ=抵抗の身ぶりという率直な図式も揺らぐ。戦後日本ジャズの芽吹きの一端を担ったのは、ストライキで食えない演奏家が参加した、米国の国家事業による製品=Vディスクだった。ジャズは時に国家や金と手を結びつつ、一つの快楽として成立してきたのだ。また何よりもジャズは性の消費と密着している。本書は戦後の「特殊慰安」施設RAAにおけるBGMとしてのジャズの在り方から始まる。戦争に敗れたとたん、日本人は自ら敵方に女性を差し出した。これは忘れてはならない。だが同時に、そうした場で従事する人々の心に刺さる魅力をジャズが持っていたとしたら、それはかつて異郷で同様の境遇にあった人々が持つ悲哀を響かせていたからかもしれない。これもジャズの「業」の一つだろう。 こうして「正史」に収まらず一筋縄ではいかない重層的な語りが出来るからこそ、ジャズはしぶとい音楽であり続けるはずだ。ごちゃごちゃ言わず楽しもう!という軽妙さ、ヒップさもまたジャズの醍醐味だ。だが一方で、一つの音から複雑なストーリーを聴き取る楽しみを与える本書のような存在が、ジャズを硬直したお堅いものとせずにおくのだろう。(こじま・まさし=一橋大学大学院社科学研究科博士課程・哲学)★にかいどう・しょう=文筆家。カルチャーメディア「ARBAN」にて音楽コラムを連載中。